脇物について |
脇物 |
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脇物
五箇伝以外の刀工集団を脇物と呼称するが、伯耆安綱、三池典太光世、青江貞次など多数の優秀な刀工に代表されるように、決して主流派に劣るものではない。
著明な刀工群
東北:文寿 舞草(もくさ) 月山 玉造 宝寿
東海:嶋田義助
北陸:郷義弘
中国:備中の青江 古伯耆の安綱
九州:神息 筑紫の三池 延寿派 肥後菊池の胴田貫 薩摩の波平
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東北地方の刀工 |
東北奥州鍛冶の概要 |
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奥州鍛冶
『観知院本銘尽』には、鎌倉時代末期までの歴代ベスト42工が記され、奥州鍛冶は諸国有数の8名が挙げられています。
舞草系…鬼丸・世安・森房・幡房・瓦安
月山系…月山
玉造系…諷誦・寶次
他にも奥州鍛冶ではと見られる刀工、元々は奥州鍛冶と思われる刀工、また、縁があると思われる刀工名が見られる。
舞草鍛冶
岩手県一関市や平泉周辺を中心に、安倍氏や東北の都・平泉の需要に応じていた集団で、奥州鍛冶の中心的な存在であった。
文寿・行重・安房・森房・幡房・我里馬・鬼丸・瓦安・世安・森戸・光長・閉寂・国平など
月山鍛冶
出羽三山や山岳信仰を中心に諸国を従来した鍛冶集団。
室町期には山形県寒河江周辺を拠点にしていた。
月山・近則・鬼玉丸・仏心・俊吉・軍勝など
玉造鍛冶
宮城県玉造郡周辺を中心にし、その立地条件から、三つの集団の中心では早くに律令政権下に組み入れられたと思われる集団。
上一丸・家則・真国・貞房・諷誦・宝寿など
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舞草鍛冶 |
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概要 |
舞草鍛冶は岩手県の一関市を拠点とした鍛冶集団。
舞草鍛冶がいつ頃からこの地ではじめられたかは不明で、平安時代中頃と推定されている。
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刀工 |
鎌倉後期に書かれた『観智院本銘尽』には、「神代より当代まで上手の事」のうち42名中「世安」、「宝次」ら8名の舞草鍛冶の名が挙げられている。
光長
『銘尽』 (12裏・13表より http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/wa1-4/mokuji.html)
朝廷に太刀三千振を献上した。 |

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その他の刀工
鬼丸 文寿 世安 宝次 森房 幡房 瓦安
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補足 |
延喜式内社 舞草神社
祭神 蒼稲魂命 伊邪那岐尊 伊邪那美尊
住所 岩手県一関市舞川大平 5
由緒 大同2年(807)創建
仁寿2年(852)8月7日従五位下
天正2年(1574)2月27日焼失
文禄元年(1592)3月12日野火火災
明治4年廃仏毀釈で神社として復興
明治8年5月7日村社
明治9年(1876)9月17日随身門を残し社殿火災焼失
大正2年11月17日本堂造営
大正9年神輿堂造営
昭和12年3月16日拝殿新築
平成元年神饌殿、神鐘楼建立
諸説あり
源氏の宝刀「髭切」が舞草鍛冶の「文寿」の作であるとの説もある。
名工、古備前正恒の父「安正」の名前は「舞草有正」と云い、舞草鍛冶だったと言う説もある。
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月山鍛冶 |
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概要 |
鎌倉期から室町にかけて活躍した刀工とその一派。
出羽国の月山を拠点とした。
その中で幕末に大坂に移住した子孫が現代まで残っており、奈良県を拠点として活動している。
伝承より
出羽国月山の霊場に住んだ鬼王丸(鬼神太夫とも呼ばれる)を元祖とする。
『今昔物語集』(12世紀前半・平安末期成立)には、鬼王丸の太刀を手にした山賊の話が記述されており、当時から名の知れた刀工であることが分かる。
以来、月山のふもとでは刀鍛冶が栄え、軍勝、寛安、近則、久利などの名人を輩出した。
鎌倉期から室町期にかけて
月山の銘を刻んだ刀剣は実用性の高さと綾杉肌の美しさの両面から全国に広まり、この刀工集団を「月山鍛冶」、その作品を「月山物」と呼んだ。
室町期
相州伝との技術的な交流があり、双方合作の太刀が伝わる。
出羽国山形の領主最上義光は、織田信長への献上品として白鷹、馬などとともに刀工月山が打った槍10本を送ったという。
また、月山の麓の慈恩寺には、1555年に刀工月山俊吉により鍛造された鋳鉄草木文透彫釣燈籠が現存する。
また、慈恩寺の南の結界に当たる八鍬鹿嶋神社及び、寒河江氏譜代の長崎中山氏が庇護した平塩熊野神社にも月山鍛冶作成の燭台が残る。
江戸期
しかし戦国時代が終わり、江戸期に入ると月山鍛冶はいったん途絶えた。
そのため江戸初期以前の作品を便宜上「古月山」と呼ぶことがある。
幕末
一門の弥八郎貞吉は大坂に移住。
以来、月山家は、関西を拠点として作刀活動を行う。
明治以降
初代貞一、二代貞一、当代月山貞利が現在も作刀を行っている。
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刀工・作刀 |
鬼王丸
出羽国月山の霊場に住んだ。
『今昔物語集』には、鬼王丸の太刀を手にした山賊の話が記述されており、当時から名の知れた刀であることが分かる。
その他の刀工
軍勝、寛安、近則、久利 など
明治以降の刀工
初代貞一
弥八郎貞吉の養子の弥五郎貞一(1836年-1918年)は、鍛刀及び刀身彫刻に才能を発揮した。
特に月山伝として有名な「綾杉肌」の復元に努めた。
宮本包則と並んで、帝室技芸員に選ばれ、宮内省御用刀匠となる。
愛刀家であった明治天皇の軍刀をはじめ、皇族・著名人の作刀を数多く行い、第一人者の地位を確立する。
平家重代の小烏丸を模した元帥刀を考案したのも貞一である。
陸軍大学校の成績優等者に卒業時下賜される恩賜の軍刀も作刀した。
初代貞一以降も、月山家は、大正天皇即位礼の佩用太刀や昭和天皇の立太子礼佩用太刀等、天皇家や皇族の守り刀
などにも携わった。
月山貞勝(1869年-1943年)
初代貞一の長男。
二代貞一
孫の月山貞一(1907年-1995年)は、昭和46年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
三代月山貞利
二代貞一の三男(1946年生、奈良県無形文化財、前全日本刀匠会会長)。
その長男貞伸(1979年生)も2006年より本格的な作刀活動に入る。
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玉造鍛冶 |
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概要 |
宮城県玉造郡周辺を中心にし、その立地条件から、三つの集団の中心では早くに律令政権下に組み入れられたと思われる集団。
上一丸 家則 真国 貞房 諷誦 宝寿など
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作刀・刀工 |
宝寿
平安時代から室町時代の終わり頃まで続いた刀鍛冶の集団で、この派は代々、作った刀に「宝寿」という銘を刻んだ。
「平泉住宝寿」と銘を切った刀も見られる。
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東海地方の刀工 |
嶋田鍛冶 |
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概要 |
駿河国嶋田で活動した刀工の一派。
後鳥羽上皇の番鍛冶を務め京都五条に居を構えた、備前一文字助宗(五条助宗)を祖とするという。
助宗が駿州嶋田に移住して、その子孫が正安年間に五郎入道正宗の教えを受け初代義助となり、四代義助が駿河守護今川義忠に召し抱えられた。
ただし、義助の名は義忠の一字を拝領したものと考えられ、実際はこれが初代と推測されている。
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刀工 作刀 |
五条義助(ぎすけ / よしすけ)
嶋田派と呼ばれる刀工流派の一つで、室町時代中期から江戸時代中期まで代を重ねている。
なお、名の読みに定説はなく、どちらでも間違いにはならない。
義助を襲名した者は三代か四代か諸説あるが、初代が康正、二代は永正、三代が天文年間頃の時期で、四代とされる者は天正年間頃となる。
槍の名工としても知られ、天下三槍の一つ御手杵の槍は四代義助の作とされる。
室町時代後期の連歌師、宗長法師は義助の子である。
島田派一門には助宗、広助、義綱、元助などがいる。
初代義助の弟は助宗を名乗り、明応年間頃から三代があり、島田助宗として知られる。
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千子村正 |
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概要 |
千子村正について
五箇伝の一つ美濃伝を基礎に、山城伝、島田派、末相州等の技を取り入れて独自の作域に達し、刃文を表裏揃える村正刃(千子刃)などの様式を広めた。
同銘で六代以上ある。
名跡そのものは少なくとも寛文8年(1668年)まで存続した。
初代村正
延徳(1489–1492年)・明応(1492–1501年)から永正(1504–1521年)にかけて活躍したとし、 永正10年の銘がある「妙法村正」は初代の晩年の作だという。
二代村正
天文初期(1532–1539年ごろ)から作刀を開始
三代村正
天正(1573–1592年)から作刀開始。
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作刀 |
凄まじい斬れ味で、地理的にも近い精強な三河武士を中心に、徳川家康(村正御大小)や豊臣秀次(一胴七度)などの天下人を含めた大名格や、その重臣・子弟などの上級武士に戦場で愛用された優品を作成。
妙法村正
衛門尉村正(文亀・永正頃(1501–1521年頃)の代の村正)作の打刀。
佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の愛刀。
村正御大小
打刀と脇差。。
徳川家康の愛刀。
打刀〈銘 村正〉、68.80 cm、反り1.80 cm、徳川美術館蔵
一胴七度
打刀で、関白豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)の愛刀。
匕首腰間鳴(ひしゅようかんになる)
西郷隆盛愛刀。
鉄扇造りの短刀で、諸刃作りで棟の方でも斬れるようになっている。
春畝村正
千子、村正、初代、脇差 一尺二寸三分/同、二代、刀、 二尺二寸六分
初代内閣総理大臣伊藤博文(春畝公)の最晩年の愛刀。
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近畿・北陸の刀工 |
越中鍛冶 |
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概要 |
富山県小矢部市の博物館には市内の古墳から発掘された「鉄製の古代の鎧」の現物が展示されており、富山県の各所の古墳からは多くの鉄剣が発掘されている。
越中吉岡庄の赤丸村には、鎌倉~南北朝にかけて大和国宇陀郡から日本刀の祖の「天国アマノクニ」の弟子の「宇多刀工 宇多国光」が移り住んだと云う。
又、赤丸村には、江戸時代にも盛阿弥と言う刀鍛冶が住んだと云う「鍛冶屋町島」とか「鉄砲島」と言う地域が残っており、古い地域の歴史と会わせて、古くから「鍛冶屋」、「鋳物師」等が住んでいた。
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刀工 作刀 |
越中則重 (または佐伯則重、または居住地から呉服郷則重)
鎌倉時代末期の越中国婦負郡呉服郷(現在の富山県富山市五福)の刀工。
郷義弘 (ごうのよしひろ、生没年不詳)
南北朝時代の越中の刀工。
越中国新川郡松倉郷(現在の富山県魚津市)に住み、27歳の若さで没したと伝わる。
師は岡崎正宗または越中則重と云われ、「郷」または「江」と称する(読みはいずれも「ごう」)。
宇多国光
鎌倉~南北朝にかけて大和国宇陀郡から移住した。
日本刀の祖の「天国」の弟子とも言われるが、年代が合わない。
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中国地方の刀工 |
備中鍛冶の概要 |
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吉備国は、古来鉄の産地として知られ、備前国(岡山県の南東部)には多くの刀工が存在したが、隣国の備中国(岡山県の西部)にも刀工集団が存在した。
古伝書『元亀目利書』によれば、備中鍛冶は刀工・安次を祖とする青江鍛冶と、則高を祖とする妹尾鍛冶とに分かれるという。
青江は、高梁川の下流、現在の岡山県倉敷市に位置する。
現存刀の銘には、刀工の居住地として子位荘(こいのしょう)および万寿荘(まんじゅのしょう/ますのしょう)の地名がみられる。
「備中国子位東庄青江助次作/正和元年六月日」と銘する太刀が現存し、青江が子位荘に位置していたことが明らかである。
子位荘は墾田地系荘園、万寿荘は寄進系荘園とされるが、これらの詳しい沿革は不明であり、子位は万寿荘のなかの地名であったのか、子位荘と万寿荘は並存していたのかどうかも不明である。
妹尾は、現在の岡山市南区妹尾にあたる。
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青江派(あおえは)の概要 |
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青江派は、備中国青江(現・岡山県倉敷市)の日本刀刀工一派。
平安末期に始まり、鎌倉・南北朝時代に栄え、室町時代には衰退。
青江の刀工は年代から古青江(こあおえ)、中青江(ちゅうあおえ)、末青江(すえあおえ)の3つに分けられる。
古青江--鎌倉中期頃まで。
中青江--古と末の中間に位置するもの。鎌倉末期~南北朝初期。
末青江--南北朝時代の延文年間(1356 - 1360年)を中心とした時期の刀工を指す。
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古青江 |
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概要 |
その作風に著しい特色がある。
太刀姿は腰元で大きく反り、為次作の太刀(号狐ヶ崎)のように茎(なかご)にも反りの付くものがある。
銘を切る位置にも特色があり、太刀であっても刀銘(裏銘)、すなわち、腰に佩いた際に体に接する面に銘を切る例が多い。
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刀工・作刀 |
後鳥羽院番鍛冶
後鳥羽院番鍛冶として、備中国からは、貞次、恒次、次家が番鍛冶として召されたという。
古青江の代表工
守次、貞次、恒次、次家のほか、為次、康次、包次、助次、俊次、次忠、末次ら。
守次、貞次、恒次のように、「次」字を通字とする。
にっかり青江(南北朝) 大脇差 重要美術品 香川県・丸亀市立資料館蔵
青江貞次作とされる。
柴田勝家、丹羽長秀、豊臣秀吉らを経て丸亀藩京極氏に伝わる。
名称の由来は、にっかり笑う女の幽霊を切り捨てて、翌朝確認をしたら石塔が真っ二つになっていたという伝説による。
補足:脇差しの分類
大脇差=1尺8寸以上2尺未満(54.5cm〜60.6cm)
中脇差=1尺3寸以上1尺8寸未満(40cm〜54.5cm)
小脇差=1尺以上1尺3寸未満(40cm未満)
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中青江 |
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概要 |
鎌倉時代末期から南北朝初期頃の青江鍛冶を指す。
古青江には銘に年号を切ったものを見ないが、中青江の時代から年号入りの銘がみられる。
このうち最古の年号は正和(1313 - 1316年)である。
また、銘に居住地や官名を切るものもあらわれる。
「備中国住右衛門尉平吉次作」 「備州万寿住右衛門尉吉次作」などと銘した太刀が現存する。
作風は前代に引き続き、地鉄には澄肌がみられ、刃文は直刃調を主とするが、前代にはみられなかった丁子を交えた乱刃の作もある。
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刀工・作刀 |
代表工
助次、吉次、直次、恒次、貞次ら。
恒次、貞次などは古青江にも同名の刀工がいる。
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末青江 |
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概要 |
延文年間(1356 - 1360年)を中心とした南北朝時代の青江鍛冶を指す。
太刀は、この時期の日本刀の特色を反映した、刃長3尺(約90センチ)を超える大太刀があらわれる。
これらの大太刀は、幅広く、反り浅く、切先が延びて大切先となる、この時代特有の造り込みを示す。この時代には短刀の作もみられるが、やはり時代の特色を反映して、寸延び(刃長1尺を超える)で幅広く、やや反りの付いたものが多い。
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刀工・作刀 |
代表工
次吉、守次、次直、貞次ら
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妹尾鍛冶 |
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概要 |
則高を祖とするというが、現存刀は少ない。
作風は備前物に似るが、同時期の備前物よりは地味である。
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刀工・作刀 |
妹尾鍛冶とされる者に則重のほか正恒、是重、安家らがいる。
正恒は、同時代(平安末期〜鎌倉初期)の古備前派にも同名の刀工が存在する。
備中正恒は鑢目(やすりめ)を大筋違とする点が古備前正恒と異なるが、両名の正恒は作風、銘字ともに類似しており、両者には何らかの関連が想定される。
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九州の刀工 |
筑後 三池派の概要 |
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三池派は三池多田に住んでいたので、三池派という。
三池派の銘には、次のようなものが残されているが、文献によりまちまちで関連ははっきりとはしない。
三池住元真 三池住光世 定守 傳多 光世作 利延 利成 広次 善行 吉行 国永 盛次
典太 傳太 傳太光世 政定 顕次 守綱 実世 正国 次信 継信 三池元光
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三池典太光世 |
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概要 |
平安時代末期、筑後国(現在の福岡県南部)の刀工。典太、伝太と称す。法名、元真。
三池(現在の福岡県大牟田市)に住んでいたため、三池典太(みいけてんた)、三池典太光世とも呼ばれる。
作風
身幅が広く豪壮。
刀剣に魂が乗り移り、魔を追い払う能力を持つと言われている。(前田家が大典太を所有する経緯となった伝承など)
切れ味が鋭く、多数の文献に残されている。
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作刀 |
「大典太光世」
足利将軍家以来の重宝で名高い、天下五剣のひとつ。
刃長66.1cm、先身幅2.5cm、元身幅3.5cm、反り2.7cm。
同時代の太刀と比べて非常に身幅が広く、刀身長の短い独特の体配を持つ。
足利将軍家の家宝であったが、足利家の没落により流出し豊臣秀吉の所有となった。
その後、豊臣秀吉から前田利家に贈られたとも、豊臣秀吉が徳川家康に贈り、徳川秀忠から前田利家に譲られたとも伝えられる。
以降、前田家第一の家宝として代々伝えられた。
「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」
徳川家康の愛刀。坂上田村麻呂の愛刀騒速の写しとも言われる。
無銘だが光世の作と伝えられる。
「短刀 銘光世」
細川幽斎が 本妙寺に寄進した短刀。重要文化財に指定されている。
「光世」
徳川吉宗が刺田比古神社に寄進した太刀。
大正13年に国宝に指定されたが、昭和20年の和歌山大空襲で焼失した。
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筑前 左文字派 |
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左文字派
鎌倉時代中期の良西を祖とする、筑前国の刀工。
左文字一派は、南北朝の騒乱時に南朝側について敗れたため長門(長門左/ながとさ)、肥前国(平戸左(ひらどさ)、筑後国(大石左/おおいしさ)などに移住した。
良西→西蓮(談義所西蓮、国吉)→実阿→左文字源慶→左安吉と続く。
良西は寛喜文暦頃の刀匠、備前出身高綱の子とされて居る。
実阿(じつあ)は、鎌倉後期豊後国彦山の修験僧鍛冶の流れを汲む。
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左文字源慶 |
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概要
相模国の刀工正宗に入門したと言われ、正宗十哲の一人に数えられる。
現存する在銘作は比較的多いが、太刀は江雪左文字のみで他は短刀が多い。
通称は左衛門三郎、法名は慶源。
銘は「左」と切り、一派の他の刀工と区別するため「大左」と呼ばれることもある。
作刀
太刀 銘 筑州住左(江雪左文字) 国宝 刃長78.1センチ 法人蔵 ふくやま美術館寄託
短刀 銘 左 筑州住(小夜左文字) 重要文化財 法人蔵
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左安吉 (さのやすよし) |
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概要
左衛門三郎と称す。
作刀
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肥後 胴田貫と延寿派 |
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同田貫(どうだぬき)
九州肥後国菊池の同田貫(地名)を本拠地に、永禄頃から活躍した肥後刀工の一群。
延寿派の末流とされる。
銘を九州肥後同田貫、肥後州同田貫、肥後国菊池住同田貫などと切り、また個銘(刀工の名)もある。
中では加藤清正から一字を授かったという切銘の正国(九州肥後同田貫藤原正国、または上野介)が知られ、もともと同田貫は清正の抱えであったとも伝えられる。
装飾を全くと言っていいほど加えない、あまりにも質素な造りをしているが故に作柄の出来、見処(鑑賞価値)に乏しい作刀が多いと看做され、著名で高価だが美術品としての評価は低い刀工群であり、いわゆる剛刀と呼ばれる類の刀である。
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延寿派 |
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概要 |
鎌倉末期から室町時代にかけての肥後国菊池郡隈府(現熊本県菊池市隅府))の刀工の一流派。
同田貫の祖とされる。
山城国、来系の分派で、始祖は来国村という。
国村の父が来国行の娘婿といわれ、国村が延寿太郎を名のったところから、一門を「延寿」と称するに至った。
この派は南北朝時代に菊池氏に属したので、勤王家の間でとくに珍重された。
延寿刀は、寿が延びると書くことから縁起がよいとされ、大名家の贈答品としても愛された
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刀工・作刀 |
来国村
延寿派の祖である国村は、古伝書では大和千手院派出身の弘村の子と記載されている。
弘村が来国行の門に入り、娘婿となって生まれたのが国村と伝わっている。
来国行→来弘村→来国村→延寿国時
延寿国信
国村の門下の鍛冶。
安土桃山期に記された古書「紛寄論」では「国信の作風は来派よりもむしろ粟田口派に似ている」と記されており、同太刀の作風からも粟田口国吉のような作例をうかがい知ることができる。
延寿国資(くにすけ)
同派の中でも最も来派に近い作風を示す刀工。
殊に重要文化財に指定されている肥後熊本藩主細川家伝来の太刀は同派を代表する作刀の一つとして名高い。
延寿国時
国村の子と伝わり、同派の中では比較的作例が多く、またその名跡が室町期まで続いています。
その為、同派の中では最も目にする機会の多い刀工といえる。
延寿国泰
延寿国村の子と伝えられ、上記の三工などと並んで同派を代表する刀工の一人。
延慶から正平頃まで作刀がみられ、同派の中で最も強く沸づく傾向がみられる。
国信、国資、国時、国泰の四工は体配や作風、年紀などからみて同時期の刀工とみられ、来派の刀工でいえば来国光や国次などと同時期にあたります。
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胴田貫 |
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概要 |
盛衰
15世紀末まで肥後北部を支配していた菊池氏の抱え刀工として延寿派が活躍し、その延寿の分派として菊池市稗方に起こったのが同田貫の始まりと言われる。
その後、正国・清国の兄弟をはじめ兵部・又八といった刀工たちが玉名に移住して鍛刀した。
同田貫の作刀は豪刀武用刀として知られ、加藤清正の入国後は抱え工となった。
その後、熊本城の常備刀とされ全盛期を迎えるが、加藤家改易後衰亡し、鍛刀技術は途絶えた。
その後、上野介正国から数えて9代目の正勝が薩州正幸より鍛刀術を習得し、第10代宗広、第11代宗春の時代に「新々刀同田貫」として再び繁栄した 。
典型的作風
①慶元新刀期
身巾尋常ながらも重ね厚く、刃肉豊かにつき、切先伸び、反り浅い。長寸のものが多い。
鍛えは板目肌流れ、白ける。直刃、小乱刃を焼く。
銘は「肥後州同田抜」等、個名を刻むものは少ない。
中茎鑢目は切りが多い。時代小説に出てくる同田貫はこの頃の作である。
江戸前 - 中期においては同名続くが振るわない。
②新々刀期(1772年以後)
水心子正秀門人となる宗廣が現われ、再び世に知られる。
身幅広く重ね尋常。切先伸び心で反り深い。鍛えは無地鉄に見える小板目で、肥前刀のような小糠肌も見られる。
主に備前伝の丁子乱れ刃を焼き、稀に直刃を焼く。
中茎は切りに筋違の化粧鑢をかけ「肥後国住延寿太郎宗廣」、さらに年期、注文名を切る。
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刀工・作刀 |
肥後同田貫藤原正国、または上野介正国
加藤清正から一字を授かったという。
もともと同田貫は清正の抱えであった、とも伝えられる。
その他の刀工
9代目の正勝:薩州正幸より鍛刀術を習得した。
第10代宗広、第11代宗春:この時代に「新々刀同田貫」として再び繁栄した。
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薩摩 波平(なみのひら) |
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概要 |
平安時代後期、薩摩国薩摩国谿山郡波平(現、鹿児島市南部)の刀工集団。
大和国から移住してきた正国の子、波平行安を祖とする。
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刀工・作刀 |
初代 波平行安(なみのひらゆきやす、生没年未詳)
平安時代後期、薩摩国波平(現、鹿児島市南部)の刀工。
大和国から移住してきた正国の子と伝えられるが正国の作刀は現存せず、行安が波平派の事実上の祖とされる。
その作風は小鋒で腰反りの深い太刀姿で、白気ごころの地鉄に細直刃を焼く古風なものである。
以降も明治に至るまで行安の名は波平派の嫡流によって襲名され続ける。
56代 波平安張
新刀波平の祖とされる。
57代 波平安行または大和守安行(1620年~1695年)
江戸時代前期・薩摩国の刀工。本名:橋口三郎兵衛。
波平派は代々大和伝での作刀を続けてきたが、安行は時の薩摩藩主島津家久に命ぜられ伊豆守正房の門下となり相州伝を学んだ。 寛文5年(1665年)大和大掾、のち大和守を受領。
安行には4人の息子がおり、四男安国が本家を継いだ。
長男安休は祖父安張の跡を継ぎ坂ノ上で作刀し坂ノ上波平(嫡家)の祖となった。
次男安正は分家して谷山・堀に住み堀の波平と呼ばれた。
58代 波平安国(なみのひらやすくに、生没年不詳)
江戸時代元禄期・薩摩の刀工。本名:橋口四郎兵衛、のち三郎兵衛。 波平57代・大和守安行の四男。
本家を継ぎ波平58代となった。
宝永5年(1708年)大和大掾を受領。享保5年(1720年)没。
息子は波平59代・ 安常。 門人に一平安代がいる。 作風はよく詰んだ板目の地鉄に柾目が交じり地沸つく。刃紋は直刃調、小湾れ、小互の目が交じるものもある。小沸出来に荒沸交じり、砂流し入る。帽子は小丸または中丸に返り、茎鑢目は檜垣、先栗尻。 池
波正太郎の時代小説「剣客商売」で、安国の脇差が主人公秋山小兵衛の差料として登場している。
59代 波平安常(生没年不詳)
江戸時代延享-明和期・薩摩の刀工。本名:橋口四郎兵衛。
58代安国の長男。
本家を継ぎ波平59代となった。
大和守安行と並び新刀波平を代表する刀工。
新刀期以降の波平としては唯一重要刀剣となっている作品がある。
作風はよく詰んだ板目の地鉄に柾目がかかり地沸良くつく。刃紋は直刃調、互の目が交じり足が入る。
匂深く沸厚く荒沸交じり砂流し入り、いわゆる芋蔓を呈する。
帽子は小丸または中丸に返り、茎鑢目は檜垣、鷹の羽。先栗尻。
60代 波平行安
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初載2018-10-10
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参考資料等 |
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「日本刀工辞典 古刀篇」 藤代義雄・藤代松雄著) (藤代商店 1937)
「図解 日本刀事典―刀・拵から刀工・名刀まで刀剣用語徹底網羅」 (歴史群像編集部 2006)
「図説・日本刀大全―決定版 」 (歴史群像シリーズ 2006 稲田和彦
「写真で覚える日本刀の基礎知識」 (2009 全日本刀匠会)
「日本刀の科学 武器としての合理性と機能美に科学で迫る」 (サイエンス・アイ新書 2016)
「日本刀の教科書」 (東京堂出版 2014 渡邉 妙子)
『日本刀図鑑』 (宝島社、2015、別冊宝島2646号)
『銘尽』(めいづくし) 国立国会図書館 (http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288371)
『蕨手刀の考古学』 ものが語る歴史 39 同成社 2018/12/12 黒済 和彦
『つくられたエミシ』 市民の考古学 15 同成社 2018/08/15 松本建速
Wikipedia 「月山鍛冶」 「嶋田鍛冶」 「青江」 「胴田貫」 「三池典太光世」
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