津波の概要 | ||||
日本海と地震・津波 | ||||
日本海に存在するプレート境界 | ||||
日本海では津波は発生しないという俗説がある。 これはプレート境界が日本海には無いと考えられていたことによる。 しかし北米プレートとユーラシアプレートの境界は北部日本海に存在し、よって北部日本海でも津波は起きる可能性があると考えておく必要がある。 |
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![]() 「ニューステージ地学図表」より引用 |
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日本海のプレート境界型地震と津波 | ||||
過去においても、近年でもかなりの日本海における津波被害が認められている。 1964年・・・・新潟地震 M7.5 6mの津波、死者:26名 1983年・・・・日本海中部地震 M7.7 13mの津波、死者:104人 隠岐島でも津波 1993年・・・・北海道南西沖地震 M7.8 30mの津波 死者202人、行方不明者28人 1995年・・・・北サハリン地震 |
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山陰地方と地震・津波 | ||||
山陰沖の波源断層 | ||||
山陰地方にはプレート境界はなく、大きな津波襲来の可能性は低いと考えられていた。 しかし平成24年1月25日、島根県は新潟県佐渡島の北から秋田県沖にかけての想定震源域でマグニチュード7,85の大地震が発生した場合、隠岐諸島や島根半島の一部で10メートル前後の津波が到達するとの予測を公表した。 島根県は最大4メートルとしてきた現行の県地域防災計画の大幅な見直しを迫られた。 さらに山陰沖には海域活断層が存在し、これが波源断層と成る可能性も充分にある。 @隠岐島北西方の断層(114km) A隠岐東方断層(58Km) B鳥取沖東部断層(51km) C鳥取沖西部断層(33Km) 断層長約13km、変位量約0.6mでMw6以上の中地震が発生し、津波を発生させ得る地震規模とされる。 長さ40Kmの断層が2m変位するとMw7クラスの地震が発生。 よって山陰沖には津波を発生させうる4つの波源断層が存在することになる。 |
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![]() 「鳥取県HP」から引用 |
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山陰地方を襲った津波の記録 | ||||
過去1000年間に8件の津波の記録が認められた。 @1026(万寿3)年・・・・万寿の大津波 石見地方沿岸に大被害 津波は大田市まで及ぶ可能性あり。 A1741(寛保1)年 江津で波高1〜2m B1833(天保4)年 隠岐で波高2〜2.6m C1872(明治5)年・・・・ 浜田地震 津波は大田市から浜田市にかけて認められたが被害記載は少ない。 D1940(昭和15)年 隠岐で津波の高さ1.5m E1964(昭和39)年・・・・新潟地震 床下浸水1、水田冠水10ha F1983(昭和58)年・・・・日本海中部地震(秋田県西方沖) 隠岐、島根半島を中心に被害 浜田市まで津波が到達する。 G1993(平成5)年・・・・北海道南西沖地震(北海道南西沖) 隠岐、島根半島を中心に被害。 |
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現代の鳥取県西部地方(西伯耆)に10mの津波が襲来した場合のシミュレーション | ||||
Flood Map を用いて13m海水面を上昇させてみた。 海水面上昇がそのまま津波の被害域と同等は言えないかもしれないが、13m海水面が上昇すると弓ヶ浜半島全域および米子市内のほとんどは水中に没する結果となる。 |
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注目すべきは、被災を免れるであろう境界域には式内社、国史顕在社といった古社が存在することである。 下図左から、粟島神社、宗像神社、赤猪岩神社、巨勢神社、大神山神社冬宮、三輪神社、日吉神社、壱宮神社。 いづれもかなりの古社であり、これは概ね海抜20m前後のところに存在する。 これらの立地は必ずしも津波によってもたらされた訳ではなく、おそらく長期的な海水面変動に伴うものと考えられる。 BC4100年頃、縄文海進によって海水面は現在より4−6m高かったと推測されている。 BC800年頃、縄文海退によって海水面は−6mとなる。 しかし一度海水面が上昇するとはすぐには引かず、湿地帯として数百年間残るとされている。 以後も海水面は小規模ではあるが上下変動し、常に陸地であったところが現在古社が存在している高度では無かったかと思われる。 そのため、これら神社の立地場所は、当時の交通要所である水際線に概ね一致するのではなかろうか。 |
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山陰地方に被害をもたらした歴史地震と津波 | ||||
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古墳時代 | ||||
勝負遺跡 4−5世紀(古墳時代)・・・・・勝負遺跡(松江市東出雲町)でM6.5以上の地震。 |
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飛鳥・奈良時代 | ||||
701年(大宝1) 丹後国 凡海郷の津波 | ||||
日時:701(大宝1)・・・丹後国風土記残缺 震源:不明 規模:不明 被害:若狭湾の凡海郷(島)が沈没し、頂上二つの小島のみになる。 しかし実際に津波が発生したか否かの確証は無し。 補足 若狭は当時の山陰道にて、若狭も山陰地方と考えてここに記載した。 続日本紀 2より 3月26日 丹波で地震。3日間続く。 若狭湾の凡海郷(島)が沈没し、頂上二つの小島のみになる。 現在の冠島(かんむりじま)・履島(くつじま)。(確証は無し)5月12日とも言う。 丹後国風土記残缺より 凡海郷は、往昔、此田造郷万代浜を去ること四拾三里。□□を去ること三拾五里二歩。 四面皆海に属す壱之大島也。 其凡海と称する所以は、古老伝えて曰く、往昔、天下治しめしし大穴持命と少彦名命が此地に致り坐せし時に当たり、 海中所在之小島を引き集める時に、潮が ときに大宝元年三月己亥、地震三日やまず、此里一夜にして蒼海と為る。 漸くわずかに郷中の高山二峯と立神岩、海上に出たり、今号つけて常世嶋と云う。 亦俗に男嶋女嶋と称す。 嶋毎に祠有り。祭る所は、天火明神と日子郎女神也。 是れは海部直並びに凡海連等が祖神と斎所以也。 |
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平安・鎌倉・室町・安土桃山時代 | ||||
880年 出雲地震 | ||||
日時:880(元慶4)年 10月14日 震源:東出雲町(現在の揖屋神社付近) 規模:M7.0 被害:神社、仏寺、官舎、百姓居濾の多くが倒壊。負傷者多数。余震相次ぐ。(三代実録37、38) |
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1026年(万寿3) 万寿の大津波 | ||||
日時:1026年(万寿3) 震源:不詳 規模:M7.6、津波の規模は10−20m程度と推定。 被害 益田市高津川河口にあった鴨島・鍋島・拍島の陥没および石見の海岸地域の隆起・沈降などの地変が起こり、高津川・益田川下流域および江川下流域に大津波が襲来して大被害を与えた。 補足 万寿津波の記録は益田市から大田市沿岸の各地で認められるが、平安時代に書かれた書物に記載はなく、益田から約240km 隔てた対岸の韓国(高麗王朝)にも万寿津波・地震の記録はないため、その発生を疑問とする説も存在する。 しかし、地名の伝承で小鯛ヶ迫、舟超坂、鯨坂、万寿津波の伝承・遺物など津波の痕跡を創造させる場所があり、年代はともかく、大津波を経験したことは事実と考えられる。 1977年に鴨島遺跡学術調査で海底潜水調査がおこなわれ1992年〜1993年の鴨島学術調査においても同じ場所で潜水調査が行われた。 しかし、鴨島の跡であることを示す積極的な証拠は確認できていない。 また、1992年〜1993年の陸上調査では、トレンチ発掘調査により津波堆積物が確認された。 |
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江戸時代 | ||||
1676年 石見 | ||||
日時:1676年(延宝4) 7月12日 震源・震央: 石見 規模: M6.5 被害 津和野城などに被害が出る。死者7人、負傷者35人、住宅の倒壊(とうかい)133棟。 |
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1710年 因伯美地震 | ||||
日時:1710年(宝永7) 10月3日 震源・震央:伯耆・美作 規模:M6.5 被害 河村、久米両郡(現東伯郡)で被害最大。、山崩れなどで死者多数。 倉吉・八橋町・大山・鳥取で被害。 伯耆で死者75人、家屋倒壊1,092戸。 |
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1711年 伯耆 | ||||
日時:1711年(正徳1) 3月19日 震源・震央: 規模:M6.3 被害 因幡、伯耆両国で死者4人、住家倒壊380棟。 |
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1741年 江津 | ||||
日時: 震源・震央:不明 規模: 被害:不明 補足 江津で波高1〜2m。 1741年8月28日(寛保元年) 北海道西南沖の大島で火山性地震 - M 6.9、死者2,033人。大津波発生。 これの影響か? |
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1748年 雲州地震 | ||||
日時:1748(寛延1) 震源・震央:松江市 規模: 被害 雲州地震、松江鵜部屋橋石壁崩れ橋落つという。 補足 「出雲私史抜粋」による。 |
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1778年 石見 | ||||
日時:1778年(安永7) 2月14日 震源・震央:石見 規模:M6.5 被害 那賀郡波佐村で石垣がこわれる。都茂村で落石。三隅川沿いで山崩れ、民家がこわれる。 |
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1833年(天保4) 出羽・越後・佐渡地震 | ||||
日時:1833年(天保4) 12月7日 震源・震央:庄内沖 規模:M7.4 被害 死者40?130人。東北・北陸の日本海沿岸に津波。 1964年新潟地震の津波よりも規模が大きい。 補足 隠岐で波高2〜2.6mの津波が襲来。 |
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1854年 安政南海地震 | ||||
日時:1854年(安政1) 12月24日 震源・震央:紀伊半島から四国沖 規模:M8.4 被害 鳥取で家屋全壊10棟。 出雲大社付近で住宅の倒壊150棟。 補足:安政南海地震 約32時間前に起きた安政東海地震(東南海地震含む)と共に一連の東海・東南海・南海連動型地震として扱われる。 被害は中部地方から九州地方へ及んだ。2つの巨大地震が重なった近畿地方では東海地震における被害と明確に区別ができない。震度6と推定される領域は四国太平洋側から紀伊水道沿岸部、淡路島、大阪平野および播州平野、震度4以上の領域は九州から中部地方に及ぶ。 当時は寅の大変(とらのたいへん)と呼ばれた。 激しい津波が襲来し、波高は串本で15m、土佐久礼で16.1m、室戸3.3m、宍喰5-6m、土佐種崎で11mに達した。 土佐においては酉上刻(17時頃)に第一波が到達した。 大坂では波高2.5mの津波が安治川や木津川の河口から遡上し、河口付近に碇泊していた数百隻の千石船などの大船が押上げられ橋を破壊し、周辺の家屋や土蔵にも破損や倒壊の被害を及ぼした。 |
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明治・大正・昭和 | ||||
1872年(明治5) 浜田地震 | ||||
日時:1872年(明治5) 3月14日 震源・震央:浜田市沖 規模:M7.1 被害 家屋全壊は4506棟で起こり、230棟の家屋が焼失した。 死者は浜田圏内で536人、出雲圏内では15人。 山崩れは6567か所で起き、邇摩郡では33戸が埋没した。 補足 地震発生の1週間前から鳴り動き、当日も大小の前震があった。 津波は大田市から浜田市にかけて認められたが被害記載はなかった。 この地震によって、国分海岸一帯が隆起して、石見畳ヶ浦ができた。(参考:浜田周辺の子供の遊び場) 浜田浦では本震の数十分前から潮が引き、沖合い140mのところにある鶴島まで海底が露出し、徒歩で渡ってアワビを取って帰って来たところに地震が起こったという。 |
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1925年 北但馬地震 | ||||
日時:1925年(大正14) 5月23日 震源・震央:兵庫県但馬地方北部 円山川の河口付近 規模:M6.8 被害 地震後に発生した火災により、豊岡では町の半分が焼失した。 城崎では272名(人口比で8.0%)という多数の死者が生じた。 補足 城崎(現在の豊岡市)で観測された震度6(当時の震度階級による最大震度)。 岡山県、鳥取県、和歌山県、三重県で震度4をそれぞれ観測。 |
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1927年 北丹後地震 | ||||
日時:1927年(昭和2) 3月7日 震源・震央:京都府丹後半島北部 規模:M7.3 被害 被害の総計は、死者2925人(京都府内2898人)、負傷者7806人、全壊1万2584棟、半壊9443戸、焼失8287戸、全焼6459戸、半焼96戸であり、大災害へと発展した。 地震被害が著しかったのは今の京丹後市峰山町、網野町、与謝野町旧加悦町地区、同町旧岩滝町地区で、家屋倒壊率は70%−90%に達した。 また、地震発生時刻が夕食時と重なり、火災が各所で発生。特に網野町、峰山町、与謝野町旧野田川町地区では大火となり、合わせて8287戸が焼失した。 最大の被災地となったのは「丹後縮緬」で知られる峰山町であった。 住宅や織物工場など家屋の97%が焼失。人口に対する死亡率は22%に達した。 この地震による被害は、広範囲に及び、2年前の北但馬地震で大打撃を受けた豊岡市城崎町でも、火災により2300戸以上が焼失した。 補足 北近畿を中心に中国・四国地方まで被害がおよんだ。 震源から150km以上も離れている鳥取県米子でも、2戸の倒壊家屋がでた。 |
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1943年 鳥取沖 | ||||
日時:1943年(昭和18) 3月4日 震源・震央:鳥取沖 規模:M6.2 被害 両方で軽傷者11人、建物(含非住家、塀など)倒壊68棟。 |
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1943年 鳥取地震 | ||||
日時:1943年(昭和18) 9月10日 震源:鳥取県気高郡豊実村(現・鳥取市)野坂川中流域。 規模:M7.2 被害 死者1083人。 家屋全壊7485戸、半壊6185戸、焼失251戸、被害総額は1億6000万円(当時)であった。 地震の影響による液状化現象も見られた地域も存在し、山陰本線や因美線といった鉄道もこの被害を受けたため、長期間にわたって鉄道が不通になった。 この他にも電話をはじめとする通信や道路も大きな被害を受け、梨などの農産物への被害も甚大であった。 |
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1964年 新潟地震 |
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日時:1964年(昭和39) 6月16日 震源・震央:新潟県粟島南方沖40km(日本海東縁変動帯で発生)。 規模:M7.5 被害 死者:26名、家屋全壊:1960棟、家屋半壊:6640棟、家屋浸水:15298棟 地震発生から約15分後には津波の第一波が来襲、新潟市では高さ4mに達し、その他にも佐渡島や粟島・島根県隠岐島でも冠水被害が出るなどした。 隠岐の島で床下浸水1、水田冠水10ha。 補足:日本海東縁変動帯 日本海の(日本列島より)東縁を南北に延びる幅数百キロの地質学的な歪みの集中帯。 ユーラシア大陸 - サハリン間の間宮海峡から北海道積丹半島沖を通過し、男鹿半島沖から新潟沖に繋がる。 北方への延長線は、東シベリアから北極海底の超低速で拡大するナンセン・ガッケル海嶺を経て大西洋中央海嶺に繋がるが、大西洋中央海嶺は拡張方向の運動で、シベリアの北側にあるラプテフ海のファデエフスキイ島(Ostrov Faddeyevskiy)付近を回転軸として日本方付近は東西方向からの圧縮運動となっている。 |
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1983年 日本海中部地震 | ||||
日時:1983年(昭和58) 5月26日 震源・震央:秋田県能代市西方沖80km 規模:M7.7 被害 当時日本海側で発生した最大級の地震であり、秋田県・青森県・山形県の日本海側で10mを超える津波による被害が出た。 国内での死者は104人に上り、そのうち100人が津波による犠牲者である。 家屋の全半壊3049棟、船舶沈没または流失706隻。被害総額は約1800億円。 山陰地方でも、隠岐、島根半島を中心に負傷者5人。住宅床上浸水141棟、床下浸水277棟、漁船被害317隻。 島根県の江の川などでも中流で川を遡る50cm以上の波が、はっきりと空撮で報道された。 |
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平成 | ||||
2000年(平成12) 鳥取県西部地震 |
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日時:2000年(平成12) 10月6日 震源・震央:鳥取県米子市南方約20km、深さ9km。 規模:M7.3 被害 死者0、負傷者182名。 住家全壊431棟、半壊3,068棟、一部破損17,296棟、非住家公共建物203棟、非住家その他1,879棟。 延べ17,402戸が停電。 その他電話が一時不通又は輻輳状態になり通じにくくなり、道路、鉄道、港湾、河川などで多くの被害を出した。 とくに境港港で68箇所、米子港で23箇所、安来港10箇所など、港湾の液状化による損壊が顕著であった。 補足 この地震により鳥取県日野郡日野町根雨及び境港市東本町などで震度6強の揺れを記録した。 震源の深さが浅かったため1316回の余震が頻発した。 |
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参考資料 | ||||
「地震の日本史」 (中公新書 2007 寒川旭) 「地震考古学―遺跡が語る地震の歴史」 (中公新書 1992 寒川旭) 「遺跡で検出された地震痕跡による古地震研究の成果」 (活断層・古地震研究報告,No1,p287-300,2001 寒川 旭) 「大田市周辺における万寿大津波に関する記載資料と現地視察報告」 (畑 和宏) 「山陰地域の地震活動」 (鳥取大学工学部研究報告第38巻 2007 西田 良平) 「ニューステージ地学図表」 (浜島書店 2003) 「水底の歌−柿本人麻呂論」 (新潮文庫1983年 梅原 猛) 「Flood Map」 |
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