奈良県の遺跡 | ||||||||||
弥生時代・古墳時代 | ||||||||||
佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群 | ||||||||||
所在地 奈良県奈良市曾布 遺跡概要 古墳時代前期中葉過ぎから後半にかけて営まれたヤマト政権の王墓を多く含む古墳群。 佐紀古墳群とも言う。 4世紀末から5世紀前半にかけて巨大前方後円墳が営まれた。 5世紀後半から弱小化してしまう。 主な古墳 五社神古墳(現神功陵、276メートル、前期後半) 宝来山(ほうらいさん)古墳(現垂仁天皇陵、227メートル) 佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん、現日葉酢媛(ひはすひめ)陵、210メートル、前期後半) 佐紀石塚山古墳(現成務陵、220メートル、前期後半) ウワナベ古墳(東側、中期265メートル) コナベ古墳(204メートル、中期) ヒシアゲ古墳(現磐之媛陵、218メートル、中期) 市庭古墳(現平城天皇陵、中期、250メートル) |
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大和・柳本古墳群 | ||||||||||
所在地 奈良県天理市 遺跡概要 天理市南部ー柳本町に所在する古墳時代前期の古墳群。 主な古墳 西殿塚古墳(234メートル 東殿塚古墳(175メートル) 中山大塚古墳(120メートル)-吉備的な特殊器台の破片が発見された。 黒塚古墳(128メートル) 行燈山古墳(242メートル、伝崇神天皇陵) 大和天神山古墳(113メートル) 渋谷向山古墳(300メートル、伝景行天皇陵) 櫛山古墳(150メートル) |
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纒向遺跡(巻向古墳群:桜井市周辺) | ||||||||||
所在地 奈良県桜井市 遺跡概要 三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期の遺跡群。 遺跡名は旧磯城郡纏向村の村名であり、その村名は垂仁天皇纏向珠城(たまき)宮、景行天皇纏向日代(ひしろ)宮の纏向に由来する。 範囲は約300haになる。 この遺跡からは弥生時代の集落が発見されておらず、環濠も検出されていない。 纏向遺跡はその調査結果から、3世紀前半に建設され始め、4世紀末には使われなくなったと考えられている。 主な古墳 纏向勝山古墳 纏向矢塚古墳 纏向石塚古墳 |
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東田大塚古墳 箸墓古墳(または箸墓中山古墳)・・・・・箸墓の詳細は【倭迹迹日百襲媛命】へ ホケノ山古墳 |
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補足 纏向遺跡内の古墳は,纏向型前方後円墳と呼ばれ、郡中には帆立貝式古墳が多く、次のような特徴を持っている。 後円部に比べ前方部が著しく小さく低平である。 墳丘全長・後円部直径・前方部の長さの比は、正しく3:2:1を原則としている。 後円部は、扁球・倒卵か不正円形で正円形でない。 周濠を持つ古墳は、前方部が狭い。 |
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唐子・鍵遺跡(磯城郡周辺) | ||||||||||
所在地 奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵 遺跡概要 弥生時代の環濠集落遺跡。 遺跡面積は約30ha。 全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。 弥生時代中期後半から末にかけての洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。 洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。(唐古・鍵遺跡の特質) 古墳時代前期に大環濠の消滅。 主な遺構・遺物 弥生時代中期初頭の大型建物跡を検出。 銅鐸の工房跡ではないかとみられる弥生時代の青銅器鋳造炉跡の検出。 大阪府西部・滋賀県南部・三重県から愛知県西部・岡山県南部など各地の搬入土器が出土。 |
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馬見古墳群 | ||||||||||
所在地 奈良盆地西南部、奈良県北葛城郡河合町、広陵町から大和高田市にかけて広がる馬見丘陵とその周辺に築かれた古墳群。 遺跡概要 4世紀末から6世紀にかけて造営されたと見られ、北群、中郡、南群の三郡からなる。 古代豪族・葛城氏の墓域とみる説もある。 この葛城地域には、古墳時代前期の中頃から有力な古墳の造営が始まり、前期中葉から中期には、墳丘長200メートルを超える規模の古墳が造営されている。 主な遺跡・古墳 新山(しんやま)古墳 広陵町大塚、前期、前方後方墳、137メートル、34面の銅鏡が出土 巣山(すやま)古墳 広陵町三吉、前期、前方後円墳、204メートル、特別史跡。日本を代表する周濠型前方後円墳 築山(つきやま)古墳 大和高田市築山、中期、前方後円墳、210メートル、陵墓参考地 新木山(にきやま)古墳 広陵町新木山、中期、前方後円墳、200メートル、陵墓参考地 川合大塚山古墳 河合町川合、中期、前方後円墳、195メートル、大塚山古墳群は馬見古墳群に含めない見解もある 領家山(りょうけやま)古墳 大和高田市領家、鶏頭埴輪などが出土 佐味田ナガレ山古墳 河合町佐味田(さみた) 佐味田宝塚(さみたたからづか)古墳 河合町佐味田) - 史跡。30面を超える銅鏡が出土。 その中に鏡背に四棟の家屋文様が描かれた家屋文鏡がある。 葛城王朝末期の宮殿の模様を描いたものであろうと推測されている。 狐井城山古墳 香芝市狐井・良福寺、後期、前方後円墳、140メートル 島の山古墳 川西町唐院、前期、前方後円墳、195メートル |
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明日香村周辺の遺跡 | ||||||||||
飛鳥について | ||||||||||
所在地 奈良県高市郡明日香村 主な遺跡・古墳 ①飛鳥京跡(あすかきょうあと) Ⅰ期-飛鳥岡本宮(630~636年) Ⅱ期-飛鳥板蓋宮(643~645年、655年) Ⅲ期-後飛鳥岡本宮(656~660年)、飛鳥浄御原宮(672~694年) ②石舞台古墳 ③高松塚古墳 ④キトラ古墳 |
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飛鳥板蓋宮跡 | ||||||||||
所在地 奈良県明日香村岡 遺跡概要 642年1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御(死)により即位し、同年9月19日、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに建設するよう命じた。これにより完成した。 645年6月12日に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。 この日、皇極天皇の眼前で大臣の次期後継者である蘇我入鹿が刺殺されるという凶行がなされ、これにより皇極天皇は同月14日に退位し、事件の真の首謀者と目される軽皇子(かるのみこ)が即位することとなった(孝徳天皇)。孝徳天皇は、難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に宮を置いた。 654年(白雉5)10月孝徳天皇が難波宮で没すると翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となった。 この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失した。斉明天皇は川原宮へ遷った。 築造年代 643年-645年 補足 文字どおり屋根に板(豪華な厚い板)を葺いていたことに由来すると言われている。このことにより、当時の屋根のほとんどは草葺き・茅葺き・藁葺きであり、板葺きの屋根の珍しかったことが判る。 |
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後飛鳥岡本宮跡 | ||||||||||
所在地 奈良県明日香村岡 遺跡概要 655年の冬に板蓋宮が火災に遭い、斉明天皇は川原宮へ遷ったが、並行して新たな宮殿建設地の選定も行っており、翌年(656年)には岡本に新宮殿が建てられた。 これが後飛鳥岡本宮である。 斉明天皇は舒明天皇の未亡人であり、亡き夫の旧宮地を選んだということになる。 しかし同年、この新しい宮も火災に遭う。当時、斉明天皇は多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたり、奈良盆地に運河を掘るなど、多くの土木事業を営んだが、動員される民衆には非常に不評であった。 このために放火されたのではないかとする説も出されている。(飛鳥時代の宮の多くが火災に遭っていることから、民衆の中に統治への大きな不満がある時は、天皇の宮へ放火することで意思表明していたのではないか、とする説がある。) 築造年代 655年ー661年 補足 名称「岡本宮」は、文字どおり岡(雷丘)のふもとに立地していたことに由来する。 |
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石舞台古墳 | ||||||||||
所在地 奈良県高市郡明日香村島庄 遺跡概要 巨石(花崗岩)で作られた玄室が露出しており、その形状から石舞台と呼ばれていた。 玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を有する。 また、石室内部には排水施設がある。 約30の石が積まれ、その総重量は2,300トンに達すると推定されている。 石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰のふもとから運ばれた。 昼間は公開されており、玄室内に入ることが可能である。 築造年代 7世紀初頭 補足 伝承であるが、別称を蘇我馬子桃源墓 (そがのうまことうげんぼ)という。 被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。 日本書紀の推古天皇34年(626年)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している。 ただし、異説があり、奈良大学の水野正好は、石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱えている。 |
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飛鳥浄御原宮 | ||||||||||
所在地 遺跡概要 築造年代 補足 |
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藤原京跡 | ||||||||||
所在地 遺跡概要 築造年代 補足 |
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高松塚古墳 | ||||||||||
所在地 遺跡概要 築造年代 補足 |
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大阪府の遺跡 | ||||||||||
百舌鳥古墳群(もずこふんぐん) | ||||||||||
所在地 大阪府堺市 遺跡概要 4世紀末ないし5世紀初頭から6世紀後半頃に築造された古墳が分布する 堺市北西部に位置し、古代の海岸線に近い上町台地に続く台地上に築かれている。 古墳は東西、南北ともそれぞれ約4キロメートルの範囲に分布。 主な遺跡・古墳 古墳は、二つの古墳群から構成されている 前方部が南向きに築造されているもの 上石津ミサンザイ古墳、大山古墳、田出井山古墳など 百済川の谷の両岸に築造されたもの 土師ニサンザイ古墳、いたすけ古墳、百舌鳥御廟山古墳 この台地の西側の低い背梁部に上石津ミサンザイ古墳が営まれ、その北方へ大山古墳、田出井山古墳などが順次築造されていく一方、百済川の東方へも既述した古墳群が拡大されていったと推測される。 つまり、上石津ミサンザイ古墳が先行し、川の東部には百舌鳥大塚古墳・いたすけ古墳が、次いで西方では大山古墳、川の東方では百舌鳥御廟山古墳がほぼ同時期に造られ、西方の土師ニサンザイ古墳と田出井山古墳が、これもほぼ同時期に築造されたと推測できる。 |
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古市古墳群(ふるいちこふんぐん) | ||||||||||
所在地 大阪府羽曳野市・藤井寺市を中心に広がる古墳群。 遺跡概要 4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ150年の間に築造された。 東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、墳丘長日本第2位の誉田御廟山古墳(伝応神陵)など墳丘長200メートル以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基)の古墳で構成されている 。いずれも標高24メートル以上の台地や丘陵上にある。 主な遺跡・古墳 北部の古い古墳群 誉田山古墳(伝応神陵) 仲津山古墳(伝仲津姫陵) 市ノ山古墳(伝允恭陵) 岡ミサンザイ古墳(伝仲哀陵)など 南方の新しい一群 前ノ山古墳(白鳥陵) 相対的序列は以下になると考えられている。 仲津山古墳→誉田山古墳・仲津山古墳・津堂城山古墳→市ノ山古墳・墓山古墳→河内大塚古墳 →前ノ山古墳→ボケ山古墳→白髪山古墳→高屋城山古墳 補足 古墳造営には渡来系の土師氏などが関与していたと考えられている。 |
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参考資料 | ||||||||||
「考古学事典」 (三省堂 2002) Wikipedia「飛鳥岡本宮」 「飛鳥板蓋宮」 |
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