神話時代の刀剣 | |||||
天之尾羽張 (アメノ オハバリ) | |||||
時代=イザナギ 分類=剣 イザナギが用いた十握剣。 イザナギの妻イザナミを殺す原因となったカグヅチの首を撥ねた剣。 この剣は多くの神を生み出した。 天羽々斬の別称とされる場合もある。 |
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十握剣 (トツカノ ツルギ) | |||||
時代=素戔嗚尊 分類=剣 日本神話に頻出する剣。 特定の剣をさす言葉というより剣の種類を指すと考えられている。 柄が長く、その長さが十握り(一握り指四本)あることからこう呼ばれる。 この剣は多くの神々を生み出し、また八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した。 「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記される。 ただし、十握剣については様々な場面で登場していることや、10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣、という意味の名前であることから、一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされる。 |
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天羽々斬 (アメノ ハバキリ) | |||||
時代=須佐之男命 分類=剣 須佐之男命がこの剣でヤマタノオロチを退治したと伝わる。「羽々」とは大蛇の意。 「天羽々斬剣」(あめのはばきりのつるぎ)、「布都斯魂剣」(ふつしみたまのつるぎ)とも言う。別名「蛇之麁正」(おろちのあらまさ)。 この剣は石上布都魂神社に祭られ、崇神天皇の代に石上神宮に移されたとされる。 現在、石上神宮では天羽々斬剣とされる鉄刀が、布都御魂剣とともに本殿内陣に奉安され祭られている。 これは明治11年(1878年)の石上神宮の社殿建造のための禁足地発掘の際、出土した全長120cm位の片刃の刀である。 本殿内陣には布都御魂剣とこの片刃鉄刀の他に、同じ明治11年の発掘で出土した全長60cm位の両刃の鉄剣も奉安され祭られているが、片刃鉄刀の方を天羽々斬剣としている。 |
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天叢雲剣 (アメノ ムラクモノ ツルギ) | |||||
時代=日本武尊 分類=剣 日本神話に登場する剣のひとつ。 草薙の剣と呼ばれることも。 雲を従えた大蛇の尾から出てきたことから「村雲の剣」とも呼ばれるようになった。 三種の神器の一つで、熱田神宮の御神体である。 |
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布都御魂 (フツノ ミタマ) | |||||
時代=神武天皇 分類=太刀 建御雷神はこれを用い、葦原中国を平定した。 神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下が神武天皇の下に持参した剣が布都御魂で、大和の征服に大いに役立ったとされる。 神武の治世にあっては、物部氏、穂積氏らの祖と言われる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中で祭ったが、崇神天皇の代に至り、同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の手によって石上神宮に移され、御神体となる。 布都御魂はやがて拝殿の裏手の禁足地に埋められるが、明治7年(1874年)に当時の大宮司の菅政友によって発掘され、本殿内陣に奉安され、御神体として祭られている。 形状は内反り(通常の日本刀とは逆に刃の方に湾曲)の片刃の鉄刀。 柄頭に環頭が付いている。全長85cm位。 |
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補足 |
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天羽々斬、天叢雲剣、布都御魂の三剣は神代三剣(かみよさんけん)と称される。 |
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弥生・古墳・飛鳥時代の刀剣 |
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卑弥呼に下賜された五尺刀 | |||||
魏の皇帝は、卑弥呼に対して、銅鏡をはじめとした諸々の器物を与えたが、その中には、五尺刀二口も含まれている。 魏の五尺を120.6センチとすると、日本で出土する3世紀頃の鉄刀は、どれも100センチ前後であり、今のところ、魏の五尺刀とみられる鉄刀は発見されていない。 |
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東大寺山古墳(とうだいじやまこふん)出土の紀年銘鉄刀 | |||||
東大寺山古墳 奈良県天理市に所在する古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃に築造された前方後円墳である。 副葬品の中に、24文字を金象嵌で表し、「中平」の紀年銘を持つ鉄刀があった。 天理市和邇(わに)から櫟本(いちのもと)にかけては、和邇氏族の拠点であり、被葬者も和邇氏の一族であったと考えられている。 東大寺山古墳の被葬者が生きた時代は、墳丘に立てられた埴輪や副葬遺物などから、古墳時代末期、すなわち西暦350年頃と推定されている。 中平銘紀年刀 刀身の棟の部分に24文字を金象嵌で表した長さ110センチメートルの鉄刀1口が出土した。 鉄刀の刀身の銘文は「吉祥句」を用い、 「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」 と記されていた。 内容は「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」という意味である。 中平とは後漢の霊帝の年号で、184〜189年を指し、「倭国乱」(『魏志』倭人伝)「倭国大乱」(宋書)が終結した時期、2世紀の末である。 中平銘紀年刀は「倭国乱」終結後、後漢王朝から下賜されたものであると考えられている。 この鉄刀がいつどこで入手され、本古墳に副葬されたのかは分からない。 しかし、この地の人たちが中国の後漢と通交があったのではなかろうかと考えることができる。 鉄刀に着けられていた環頭は鳥文飾りであり、刀身は内反りしていて、日本の前期古墳に特有の直刀とは違い、中平の年号が示すように中国(後漢)製である。 中国製の刀身に日本で改造し、日本式の環頭を付したものと推定されている。 |
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七支刀(シチシトウ) | |||||
時代=応神朝? 分類=不詳 石上神宮に古くから伝えられている刀剣。 神功皇后の時代に百済の国から奉られたと伝えられる。 柄は存在せず、剣身の左右から交互に6本の枝が生えている。 その形状より儀式用の刀剣と考えられている。 |
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稲荷台1号墳出土鉄剣 | |||||
出土古墳=稲荷台1号墳 千葉県市原市の養老川下流域の北岸台地上の12基からなる稲荷台古墳群中の1基。径約28メートルの円墳。 同古墳には中央木棺と北木棺が置かれており、鉄剣は中央木棺から出土した。 なお、中央木棺からは他に鉄剣3口、鋲留短甲(びょうどめたんこう)1、鉄鏃3、刀子1が出土している。 北木棺からは大刀1口、鉄鏃一種、胡?(ころく)金具1組が出土している。 鉄剣の特徴 銀象嵌(ぎんぞうがん)の銘文有り。 年代=400年代中頃 鉄剣に紀年が書かれていないが、木棺に収められていた鋲留短甲と鉄鏃の形式から400年代中葉と見られている。 銘文(推定) 表面 王賜□□敬安 裏面 此(廷)(刀)□□□ 銘文の内容 王への奉仕に対して下賜するという内容の類型的な文章である。 「王」は、倭の五王のうちの一人とみるのが通説。 五世紀中葉に房総半島の一角に本拠をもつ小首長が畿内の倭王のもとに武人として奉仕し、その功績によって銀象嵌の銘文をもつ鉄剣を下賜されるという関係が成立していた。 |
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稲荷山1号墳出土の鉄剣 | |||||
出土古墳=稲荷山古墳 埼玉県行田市 鉄剣の特徴 全長73.5センチメートル、中央の身幅3.15センチメートル 鉄剣の表裏に金象嵌の115字の銘文、表に57字、裏に58字が刻まれている。 タガネで鉄剣の表裏に文字を刻み、そこに金線を埋め込んでいる。 年代=471年 471年が定説であるが一部に531年説もある。 通説通り辛亥年が471年とするとヲワケが仕えた獲加多支鹵大王とは『古事記』『日本書紀』に出てくる大長谷若建(おおはつせわかたける)命・大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)・雄略天皇であり、あるいは『宋書』倭国伝にみえる倭王武であると判断され、 銘文(推定) 表 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比?其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比 裏 其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也 訓読 辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏) 銘文の特徴 115文字という字数は日本で最も長い。 この銘文が日本古代史の確実な基準点となりその他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。 銘文の内容 ヲワケの祖先八代の系譜を記している。 ヲワケ一族の伝統とこの鉄剣を作った理由を記している。ヲワケの臣の父(カサハヨ)と祖父(ハテヒ)には、ヒコ・スクネ・ワケなどのカバネ的尊称がつかない。 部民制(べみんせい)の用例がみられない。 ヲワケの臣。すでにウジ(氏)とトモ(伴・部)の成立がみられる。当時の倭国の人名・地名を漢字音で表記している。 獲加多支鹵大王のもとに中国語に精通した記録者の存在を示している。 |
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江田船山古墳出土の鉄刀 | |||||
出土古墳=江田船山古墳 熊本県玉名郡和水町(たまなぐんなごみまち)にある江田船山古墳は全長61メートルの前方後円墳。 横口式家型石棺(せっかん)が検出され、内部から総数92点にも及ぶ副葬品が検出された 鉄剣の特徴 刃渡り85.3センチメートルの大刀 その峰に銀象嵌(ぎんぞうがん)の銘文。 年代 年号はない。 しかし、銘文よりワカタケル大王(雄略天皇)の時代と考えられる。 銘文(推定) 治天下獲加多支鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也 訓読 天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。 八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也。 ワカタケル大王(雄略天皇)の時代にムリテが典曹という文書を司る役所に仕えていた。 八月に大鉄釜で丹念に作られためでたい大刀である。この刀を持つ者は、長寿であって、子孫まで栄えて治めることがうまくいく。 大刀を作ったのは伊太□(ワ)で、銘文を書いたのが張安である。 銘文の内容 金象嵌の鉄剣と銀象嵌の鉄刀が製作され、それらを下賜された人物が、北武蔵野稲荷山古墳と肥後の江田船山古墳に埋葬されたことになる。 『宋書』倭国伝に引く倭王武の上表文にみえる「自昔祖禰 躬?甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國」(東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国)の表現に対応するかのごとくである。 |
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岡田山1号墳出土の鉄刀 | |||||
出土古墳=岡田山1号墳 島根県松江市大草町、風土記の丘にある全長24mの前方後方墳。 内部には出雲最古級の横穴式石室がある。 鉄剣の特徴 鉄刀に銀象嵌(ぎんぞうがん)の銘文。 大正年間に出土した時はには完全であったが、その後刀身の半分が失われたために銘文もわずか末尾の12文字しか残っているに過ぎず、しかもさびが進んでいて解読できる御字が少ない。 年代 不明。しかし、岡田山一号墳は、500年代後半に造られたとされている。 銘文(推定) 確実なのは、その中の「各田了臣」の四字だけであった。 「各田了臣」は「額田部臣(ぬかたべのおみ)と読む。 銘文の内容 この太刀の出土した場所などから、額田部臣は出雲臣と同族であり、その地域の部民(べみん)の管理者であったと考えられている。 |
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丙子椒林剣(へいししょうりんけん) | |||||
大阪市の四天王寺が所蔵。 7世紀作の直刀で、国宝。 同じく四天王寺に伝わる七星剣とともに聖徳太子の佩刀と伝えられる。 「丙子椒林剣」という名称の由来は、腰元の平地に隷書体の「丙子椒林」の4字が金象嵌で表されていることによる。 「丙子椒林」の解釈には諸説あるが、「丙子」は作刀された年の干支、「椒林」は作者と解釈されるのが一般的である。 この時期の上古刀としては現存する最高の出来であるとされる。 |
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七星剣 | |||||
中国の道教思想に基づき北斗七星が意匠された刀剣の呼称。 破邪や鎮護の力が宿るとされ、儀式などに用いられた。七星刀、七星宝刀ともいう。 四天王寺所蔵の七星剣 四天王寺所蔵の七星剣は、長さ62.1cm、切刃造りの鉄剣。国宝。 名前の由来は、七星文つまり北斗七星が描かれていたことによる。 七星文の他には雲形文・三星文・竜頭・白虎などが描かれている。 丙子椒林剣とともに、聖徳太子の佩刀であるが、少なくとも鎌倉時代から錆身で拵えもなくなっている。 作風は丙子椒林剣にくらべ、スラグの残留物が目立つものの、地金は小板目がよく練れ地沸が厚くつき、これに小沸ついた細直刃を焼く。 戦後、小野光敬(人間国宝)によって研磨され、現在は東京国立博物館に寄託されている。 この七星剣にある楔形の象嵌は、長い間製法が謎とされていたが、金工・柳村仙寿により再発見され、刀工・隅谷正峯の作刀により写された。 法隆寺の銅七星剣(七星文銅太刀) 七曜剣、七曜御剣とも称される。 七星文の他には雲形文・日・月が描かれている。 かつては法隆寺金堂の持国天像の手にあり、聖徳太子の幼少期の守り刀であったと伝わる。 増長天像の剣(無文銅太刀)と同様に銅剣である。 明治11年(1878年)の法隆寺献納宝物に含まれたが、選定段階の明治9年(1876年)から返還が希望されていたが叶えられなかったもので、明治40年(1907年)に代わりに模造を作って持たせている。 昭和22年(1947年)に数点の宝物とともに2本の銅剣は返還され金堂の四天王立像の手ではなく大宝蔵殿で公開、その後1998年に完成した大宝蔵院に移された。 正倉院の呉竹鞘御杖刀(くれたけさやのごじょうとう) 呉竹鞘御杖刀は、七星文の他には雲形文や三星文が描かれ、竹で包んだ木鞘に納められた仕込み杖になっている。 聖武天皇の七七忌の東大寺献物帳である国家珍宝帳に記載されており、正倉院には呉竹鞘御杖刀を含めて8本の七星剣が納められていたが、北倉の100本あった国家珍宝帳記載品の刀剣のうち藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で持ち出されたことによって現存するのは3本のみになっており、呉竹鞘御杖刀以外の七星剣は現存していない。 稲荷山遺跡の七星剣 千葉県成田市の稲荷山(とうかやま)遺跡にて筑波大学による発掘調査で、鉄剣の一部が発見された。 元興寺文化財研究所のX線調査により象眼跡の北斗七星を確認、四天王寺伝来の七星剣との比較などにより七星剣の一部であるとして2007年3月に発表された。七星剣が発掘された初のケースとなっている。 9世紀頃に火葬によって埋められたものであり刀身自体はさらに古い時代のものと見られている。 |
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奈良時代の刀剣 |
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金銀荘大刀(きんぎんでんそうのからたち ) |
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聖武天皇の遺愛の品で国家珍宝帳にも記載され、一度は多くの金銀荘大刀と共に奉納された。 刃長二尺六寸九分 国宝。 陽宝剣、陰宝剣の2つについては、後に「除物」とされ行方がわからなくなっていた。 明治末期に東大寺大仏殿の台座側(膝下)より出土した宝剣が、その後2010年にX線検査により金銀荘大刀の陽宝剣、陰宝剣であると判明した。 刀身の柄に近い部分に象眼の「陽剱」「陰剱」の銘文を発見した。 除物七件のうち、所在が判明しているのはこの金銀荘大刀のみ。 |
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壷切御剣(つぼきりのけん) | |||||
支那より伝来の直刀であったと言われる。 皇太子相伝の護剣で、立太子の時に天皇から伝承される。 元は藤原家に伝来したもので、壷を切った故事にちなみ命名され、藤原長良(802年〜856年)から弟の良房へ、そして養子となった基経に伝えられたものであったという。 昭和天皇が立太子された際にも受け継がれている。 |
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平安時代前期〜中期の刀剣 | |||||
坂上田村麻呂に関わる刀剣 |
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血吸(ちすい) → 童子切(どうじきり) 坂上田村麻呂が鈴鹿御前と戦った時に使ったという刀。 酒呑童子絵巻ではこの血吸は坂上田村麻呂が伊勢神宮に奉納し、それを伊勢神宮から下賜された源頼光が酒呑童子退治に使ったとあるが、童子切が打たれたとされる時代から史実とは考えにくい。 騒速(そはや) 坂上田村麻呂が奥州征伐に遠征する際、清水寺 (兵庫県加東市)に必勝を祈願し奉納したと伝えられる大刀。 現在も清水寺に所蔵され、騒速と呼ばれる1口の大刀と、その副剣とされる2口の大刀の合わせて3口が「大刀 三口 附拵金具十箇」として重要文化財に指定されている。 @身1尺7寸6分強 切刃造 A身1尺7寸5分 鋒両刃造 B身1尺3寸6分強 鋒両刃造 いずれも鎬筋がやや中央により、浅い反りがあることに特色がある。 鍛えは板目肌流れ、刃文はAが細直刃を焼き、他は刃文がない。 奈良末期から平安時代中期にかけて直刀から弯刀へと変遷する過程のものとして極めて資料的価値が高いとされる。 黒漆剣(こくしつのたち) 坂上田村麻呂(758-811)の佩刀と伝わる。 鞍馬寺所有の重要文化財。切刃造の直刀、長さ92.85cm。 坂上田村麻呂の死後は歴代天皇の傍にあったというが、 現在は鞍馬寺所有、京都国立博物館に保管されている。 黒漆大刀と坂上宝剣は別物とされる。 |
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坂上宝剣(さかのうえのたからのつるぎ、さかのうえのほうけん) | |||||
日本の天皇(朝廷)に相伝される太刀。 田村将軍剣(たむらしょうぐんのつるぎ)、敦実親王剣(あつみしんのうのつるぎ)とも称されるが、現在は、所在不明とされている。 坂上田村麻呂の死後、その死を惜しむ嵯峨天皇により坂上田村麻呂の遺品の佩刀の中から1振りを選び御府に納めたとされる。 坂上宝剣は天皇に相伝される護り刀で、朝廷の守護刀として田村将軍より伝わった御佩剣。 |
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平将門佩刀および藤原秀郷佩刀 |
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将門は関東を制圧して新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。 藤原秀郷の佩刀とされる大刀が存在するが、将門も同様な大刀を所有していたかもしれない。 蜈蚣切(むかできり) 藤原秀郷が近江国三上山に住む蜈蚣(大百足)を退治した礼に龍神から送られた宝物の一つであると伝えられるもの。 作者については「伝神息」となっている。 江戸時代、松平定信により編纂された『集古十種』にも、「伊勢國太神宮蔵俵藤太秀郷 蜈蚣切太刀圖」として、絵図と解説が収録されている。 「藤原秀郷(俵藤太)の百足退治」は室町時代以降に成立した伝説であるので、この太刀も実際に藤原秀郷が所用したものであるかは大いに疑問だが、明和2年(1765年)、上述の逸話に基づいたものとして伊勢神宮に奉納され、以後、伊勢神宮の宝刀として所蔵され、現在に至っている。 刃長二尺五寸五分(約 77.273 cm)、茎(なかご)長六寸八分(約 20.61 cm)、丸止めの薙刀樋を掻く、大切先の冠落造りの太刀で、茎は切尻に近い角張った切上がりの栗尻、目釘孔は区(まち)やや下と茎尻に2つある。 藤原秀郷佩用とされる毛抜形太刀 伊勢神宮には蜈蚣切の他にも藤原秀郷が所要していたと伝えられる毛抜形太刀が奉納されて所蔵されている(「毛抜形太刀 10世紀平安時代中期 伝 藤原秀郷佩用」重要文化財)。 この毛抜形太刀は、藤原秀郷佩用との伝来の経緯や、奉納されたのが同じ伊勢神宮であることから、当項目で記述している「蜈蚣切」の号が付けられている太刀と同一のものとして書籍などで記述されていることがあるが、別のものである。 |
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平安時代中期〜後期〜鎌倉時代の刀剣 | |||||
童子切安綱 (どうじぎりやすつな) | |||||
概要:童子切(どうじぎり)とは 国宝、太刀、刃長79.9cm、反り2.7cm、銘『安綱』 作者=伯耆安綱(ほうきやすつな) 平安時代中期980年頃?、伯耆国会見郡大原? 詳細は【伯耆安綱】へ 現在は東京国立博物館に収蔵。 天下五剣の一つで、大包平と並んで最も優れた名刀とされている。 現在は東京国立博物館の所蔵品となっている。 刃長79.9cm、反り2.7cm。 名前の由来 源氏の宝剣で、清和源氏の嫡流である源頼光は、丹波国大江山に住み着いた鬼、酒呑童子の首をこの刀で切り落としたという。 童子切の名前はこの伝説に由来する。 この他にも様々な逸話が伝わる。 所有者経緯 最初は源氏の宝剣とされていた。 後に足利将軍家から豊臣秀吉、徳川家康、2代徳川秀忠、松平忠直(秀忠娘婿)に継承され、越前松平家の高田藩から津山藩に継承された。 津山松平家では、この童子切と稲葉郷、石田正宗の3振の名刀を家宝として伝えた。 昭和21年(1946年)、津山松平家より刀剣商に売却され紆余曲折の末、国の所有となり東京国立博物館に所蔵されている。 童子切(どうじぎり)と大江山伝承 酒呑童子の一味による被害があまりにも大きく、源頼光が鬼退治に行くこととなり、配下の頼光四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)や友人の藤原保昌ら、総勢五十数名とともに大江山に向かった。 山伏の姿になった一行はさまざまな人々の助けを得ながら、一晩の宿を求める振りをして酒呑童子の本拠にはいることに成功した。 その晩は酒宴が盛り上がり、深夜、酔って動かなくなった酒呑童子の一味の鬼たちを頼光らは残らず退治した。 ただし、茨木童子のみは渡辺綱と戦っていたところ、酒呑童子の討たれるのを見てこれはかなわないと退却し、唯一逃げるのに成功したという。 酒呑童子・・・詳細は【鬼伝承】へ |
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鬼切安綱 (おにきりやすつな) | |||||
概要: 重要文化財 京都北野天満宮収蔵。 長さ2尺7寸9分2厘、反り1寸2分3厘、元幅1寸7厘、刃文はのたれ乱れ。 多田源氏の棟梁である源満仲が、刀匠大原安綱に打たせた双剣のひと振り。 双剣のもう一方は、天下五剣のひとつで国宝の「名物童子切安綱」。 名前の由来 頼光四天王のひとり、渡辺綱の手によって一条戻橋の鬼の腕を落としたことから、「鬼切」の名で呼ばれることになったという。 その鬼とは茨城童子であり、酒呑童子の配下の鬼であったという。 しかし実は、このときに使ったのは「髭切りの太刀」であったともいう。 伝承 伯耆国会見郡の大原五郎太夫安綱が一心清浄の誠で鍛え、時の将軍・坂上田村麻呂にこれを奉じたものだという。 田村麻呂が鈴鹿山にて鈴鹿御前と剣合わせした太刀であり、その後は田村麻呂が伊勢大神宮に参拝の折、大宮より夢の告を受け、御所望有りて御殿へ奉納したという。 源頼光が太神宮参拝の時に夢想があり「汝に此剣を与える。是を以って子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし」と示給された。 大和国宇陀郡大森に夜な夜な妖者が出没するので頼光は配下の渡辺綱に妖者を討つよう命じ、貸し出したこの太刀で妖者の手を切り落とした。 綱が妖者の手を頼光に奉じたところ、妖者は手を取り返そうと頼光の母に化けて頼光の家の門を叩いた。 頼光が切り落とした手を見せたとたんにそれを掴み、妖者は自分の右ひじに指し合せ長二丈ばかりの牛鬼となった 。頼光は件の太刀で牛鬼の頭を切り落としたがその頭は飛び踊り、太刀の切先を五寸食いちぎって半時吠え怒ったあと地に落ちて死んだという。そののち、この太刀は多田満仲の手に渡り、信濃国戸蔵山にて鬼を切ったという。これにより「鬼切」と称することになったという 所有者経緯 源(多田)満仲から頼光に、さらに頼国に伝来したものを、源義家が蝦夷征伐に赴く際に借り、そのまま義家の子孫に伝わった。 元は坂上田村麻呂が伊勢神宮に奉納したものを源頼光が貰い受け、さらに渡辺綱に与えたともされる。 一時箱根権現に奉納されていたが、それを頼朝が貰い受け、のち最上家に伝来したとする。 何らかの由来で新田家に伝わった。 南北朝騒乱の折、新田義貞がこの鬼切安綱を鬼丸国綱とともに佩いて奮戦したという。 その後、最上家を出て輾転としている。 明治13年滋賀県権令の籠手田安定の首唱で寄付を募って購入し、に奉納した。 明治2年12月には明治天皇の叡覧も賜った。 その時本阿弥光品は、銘「国綱」と読めるが伝来通り安綱であると鑑定している。 鬼丸国綱との混同 北野天満宮所蔵のこの鬼切安綱は、大原安綱の作だが現在は銘が改変されており、「國綱」と切り直されている。鬼切"丸"国綱。 北野天満宮によれば、 「鬼切と号する太刀で、当初「安綱」と刻銘してあったが、後代に安の字に字画を加えて「國綱」 にしたと伝えられる源氏の重宝として最上家に伝来し、のち有志者より当宮へ奉納された。」という。 このため、国綱作の「鬼丸国綱」と混同される場合がある。 髭切との関係 『酒呑童子伝説』諸本では、渡辺綱が振るう太刀として鬼切の名前がみられる。 慶応義塾大学図書館蔵『しゆてんとうし』では、多田満仲が筑前国三笠郡の文壽という鍛冶に打たせたものとして鬼切が登場する。 満仲が罪人を斬った際に鬚とともに首を斬ったことから髭切と名づけた。源氏重大の太刀として頼光に相伝したが、羅生門に変化が出ると聞き、綱に貸し与えて遣わした。綱は現れた鬼の腕をこの刀で切り落としたため鬼切と名づけた。酒呑童子退治の際には綱が持った。 北野天満宮では鬼切安綱が髭切だとしている。 新田義貞が所有したのは鬼丸国綱と鬼切安綱(國綱改銘) |
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大包平(おおかねひら) | |||||
国宝、太刀 刀長89.1cm、反り3.4cm、元幅3.7cm。 作者=平安時代中期(10世紀末頃)の古備前派の刀工、包平。 日本刀の最高傑作として知られ、童子切と並び称されて「日本刀の東西の両横綱」と例えられることもある。 池田輝政の代から備前藩池田家に伝わり、池田輝政に「一国に替え難い」と云わしめたほどの名刀という。 現在は東京国立博物館に収蔵。 |
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三日月宗近(みかづきむねちか) | |||||
概要: 国宝、太刀、刃長80cm、反り2.7cm、銘『三条』 作者=三条宗近(さんじょうむねちか) 989年頃、山城国京の三条 名前の由来 刀身に三日月形の打除け(うちのけ、刃文の一種)が数多くみられることによるものとされる。 所有者経緯 三日月宗近の伝来については諸説あり、高台院から徳川秀忠に送られる以前の伝来については確定しておらず、確かな史料も少ない。 豊臣秀吉の正室高台院が所持し、その後、寛永元年(1624年)に遺品として徳川秀忠に贈られ、以来徳川将軍家の所蔵となった。 太平洋戦争後に徳川家から金貸しを経て、他の個人所蔵家に渡る。 1992年(平成4年)に当時の所蔵者から東京国立博物館に寄贈され、以後、同館の所蔵となっている。 |
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髭きり | |||||
平安時代に源満仲が作らせたとされる刀で、膝丸とともに源氏重代の刀として伝えられている。 北野天満宮所蔵。重要文化財。 刃長2尺7寸(約81cm)。 |
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膝丸(ひざまる)→蜘蛛切→吠丸→薄緑 | |||||
平安時代に源満仲が作らせたとされる刀で、髭切とともに源氏重代の刀として伝えられている。 刃長2尺7寸(約81cm)。 源頼光の代、源頼光が己を熱病に苦しめた土蜘蛛を切ったとされ、その際名を蜘蛛切と改めた。 その後もこの刀は次々と名を変えることになる。 源為義の代には夜に蛇の鳴くような声で吠えたので吠丸と名を改めた。 その後源為義の娘婿である熊野別当教真に譲られるが、教信は「源氏重代の刀を自分が持つべきではない」と考え、源氏の母を持つ権現という人物に譲る。 その後権現は源義経に吠丸を譲り、それを大層喜んだ義経は刀の名を薄緑と改める。 |
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大典太(おおてんた) | |||||
国宝・太刀、刃長65.75cm、反り2.7cm、銘『光世作』 作者=三池典太光世(みいけでんたみつよ、平安時代末期、筑後国) |
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鬼丸國綱 (おにまるくにつな) | |||||
皇室御物、太刀、刃長78.2cm、反り3.2cm、銘『國綱』 作者=粟田口国綱(あわたぐち くにつな、1163年−1255年頃、山城国粟田口) |
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小烏丸太刀(コガラスマルノタチ) | |||||
平家に代々伝えられた名刀。 鋒両刃作(きっさきもろばつくり)といわれる特殊な作りで、切っ先から刀身の半分まで両刃になっている。 |
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補足:天下五剣(てんかごけん) | |||||
天下五剣(てんかごけん) 数ある日本刀の中で室町時代頃より特に名刀といわれた5振の名物の総称。 1:童子切(どうじぎり)・・・詳細は【伯耆安綱】へ 国宝、太刀、刃長79.9cm、反り2.7cm、銘『安綱』 作者=伯耆安綱(ほうきやすつな、平安時代中期980年頃、伯耆国会見郡) 2:鬼丸(おにまる) 皇室御物、太刀、刃長78.2cm、反り3.2cm、銘『國綱』 作者=粟田口国綱(あわたぐち くにつな、1163年−1255年頃、山城国粟田口) 3:三日月宗近(みかづきむねちか) 国宝、太刀、刃長80cm、反り2.7cm、銘『三条』 作者=三条宗近(さんじょうむねちか、989年頃、山城国京の三条) 4:大典太(おおてんた) 国宝・太刀、刃長65.75cm、反り2.7cm、銘『光世作』 作者=三池典太光世(みいけでんたみつよ、平安時代末期、筑後国) 5:数珠丸(じゅずまる) 重要文化財、太刀、刃長81.1cm、反り3.0cm、銘『恒次』 作者=古青江恒次(備前国?) |
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参考資料 |
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野島 永 「弥生時代後期から古墳時代初頭における鉄製武器をめぐって」 『河P正利先生退官記念論文集 考古論集』(2004年)所収 会下和宏 「弥生時代の鉄剣・鉄刀について」 (日本考古学雑誌 第23号 p19−p39) 『日本刀工辞典 古刀篇』 藤代義雄・藤代松雄著 (藤代商店 1937) 『図解 日本刀事典―刀・拵から刀工・名刀まで刀剣用語徹底網羅』 (歴史群像編集部 2006) 『図説・日本刀大全―決定版 』 (歴史群像シリーズ 2006 稲田和彦 『写真で覚える日本刀の基礎知識』 (2009 全日本刀匠会) 『日本刀の科学 武器としての合理性と機能美に科学で迫る』 (サイエンス・アイ新書 2016) 『日本刀の教科書』 (東京堂出版 2014 渡邉 妙子) |
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