A:米子市中心部(旧米子市内)にある神社 |
加茂神社天満宮 |
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所在地
鳥取県米子市加茂町2丁目25番
社格等
旧米子町の産土神
祭神
別雷命 品陀和気命(応神天皇)、菅原道真公
歴史
創建は1300~1400年代
補足
昔、子を授りたい老人が宮水を頂き神社に祈ったところ、八十八歳にして子を得たので、加茂の里を米子というようになったという伝説もある。
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勝田(かんだ)神社 |
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所在地
鳥取県米子市博労町二丁目10番
社格等
郷社 米子地方の氏神
祭神
正哉吾勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつはやひあまのおしほみみのみこと)
歴史
創建=慶長年間(1596-1615)。
神社の由緒書では、昔、外江(とのえ)に鎮座していたがのち新屋村に移され、その後、元勝田山から現在の地に移されたという。
補足
伝説によれば、応仁の乱後、浜の目(弓ケ浜地方)に賊徒の一団があって近隣を荒したので、住民たちが津和野(島根県)から勝田上総介一党を迎えてこれを討伐した。
この戦いで郎党浜田五郎丸のほかは上総介以下おもだった家士を失ったので、五郎丸はこの地に主従を葬り、勝田明神として祀った。
のちにこれが勝田神社となって、慶長年間(1596-1615)には米子に移され、今日に至ったという。
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鴨御祖(かもみおや)神社 糺(ただす)神社 |
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所在地
鳥取県米子市立町4丁目19
社格
祭神
歴史
勧請年月・縁起・沿革等は全て不明
補足
地元では「糺神社」という名称の方が一般的。
糺坂の怪 (米子市HP 米子の民話散歩道から引用)
『米府鬼話』という江戸期に書かれた本にある話です。
…昔、尾関三郎右衛門という侍が境港で勤めていた時、彼の母が亡くなった。
亡母を菩提寺の総泉寺に葬る為に、親類や友人とともに棺をかついで米子に向かった。
糺坂(糺神社前の砂山の坂)まで帰ってきた時、「日がまだ高いので暮れてから糺坂を通ろう」という話になり、そこで棺を降ろし日暮れを待った。
待っている間に、喪主の顔が病人のようにまっ青になった。
友人が「お前、身体の具合が悪いのではないか、先に行って休んどれ」というと、彼は「子が母の棺を置いて先に行くのは孝道にはずれるが、お言葉に甘えて先に行って休ませてもらう」といって一足先に米子の町に入った。
日は暮れた。 灯火を付け「さあ出発」と糺坂にかかったところで男が一人気を失って倒れた。
助け起こして同道の医師に診てもらっていると、一陣の冷たい気味悪い風が回りを吹き抜けた。
すると、そこにいた全員が気分が悪くなって倒れる者が出た。
「これは妖怪の仕業だ。ここにはおられんぞ」といって棺をかついで大急ぎで糺坂を後にした。
後日、三郎右衛門に「糺坂の所で気分が悪くなった時、どげな気分だった?」と聞いたら「体も心も冷たくなっておかしな気分だった」と答えた。
あそこで倒れた者にも聞いたが、三郎右衛門と同じように言ったという…
この怪談でわかることが二つあります。
一つは、日の高い内に町の中に棺をかついで通ることは、昔は遠慮すべきことだったということと、今一つは、糺神社のあるあの砂山のあたりが昔の米子町と浜の村々との境界だった、ということです。
村の中や町中は何事もないのですが、町の境や村境などの境目には、昔はチミモウリョウあらゆる妖怪の寄り集う特別な空間だと思われていたようです。
だからこそ村境に塞の神を祭ったり、村のはずれにお地蔵さんが立っておられるのだと思います。
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宇気河口神社 |
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所在地 米子市内町111番
社格
祭神
不明
歴史
御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明。
補足
天女の「七夕伝説」が残されており、地元では「七夕神社」とも呼ばれている。
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籏崎神社 |
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所在地 米子市灘町三丁目117番
社格
祭神
(惣荒神という社号から、御祭神は素盞嗚尊か?)
歴史
勧請年月・縁起・沿革等は不明
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参考史料 |
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「日本の神々 神社と聖地 第7巻 山陰」 (白水社 2007 谷川健一 坂田友宏 川上迪彦他)
「鳥取県神社誌」(澤田文精堂 1934)
「日野郡誌」(名著出版社 1926)
「因伯叢書第4巻伯耆誌」 (名著出版社 1972)
「神社辞典」(東京堂出版 1997)
「ウキペディア 神社一覧」
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