安来市・東出雲町周辺の神社 | ||||||||||||||||||||
意多伎(おたき)神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県安来市飯生町679 社格 式内社 旧村社 祭神 大國魂命 大田命(同社坐御譯神社) 倉稲魂命(食師社) 五十猛神 歴史 創立年代不詳 社伝より 風土記、飯梨郷の条に見える大國魂神降臨説話に結び付けてこれを説いてゐる。 すなはち「飯梨郷、郡家東南卅二里、大國魂命天降坐時、當此處而御膳食給、故云飯成。 神亀三年改字飯梨」とある、その大國魂命が降臨されたところであるといふのである。 そのとき神は自ら鋤をとり、農耕を教へ、医薬を授け、産業を拓きたまふた。 この大國魂命を祀つたのがすなはち当社であつて、社号「意多伎」は「於多倍(おたべ)」すなはち食物を食するの意であるといふ。 また合殿神に食師社があるるのも、そのとき大神に御膳をすすめた地であるが故だと伝へてゐる。 補足 飯生(いなり)町にある。通称、飯生明神。 |
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出雲路幸(いずもじさい)神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 安来市西松井町 社格 祭神 歴史 創立年代不詳 中世以来社号を称へないで、単に「道祖神」又は「出雲路幸神」或は「松井宮」と称し、古社地は現在地を距る約五町ばかり西北の字狹井原に在った。」とある。 幸神社とは「塞神社」であり、道祖神としての幸神(サイノカミ)が祀られ、街道を往来する庶民の信仰を集めたという。 出雲国風土記には狭井(さい)社、延喜式神明帳には佐為神社と記載されている。 補足 |
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荒島八満宮 | ||||||||||||||||||||
所在地 安来市荒島町1186 社格 祭神 歴史 補足 江戸時代(1720年)に書かれた荒島八幡宮の社伝記によれば、「荒島」という地名の由来は、この地が海岸に近く、他村にすぐれ清地である。 しかし波風が強く、古くから田んぼや民家を壊してきた。そのため住民はこの地に住むことを常に不安がっていた。 このように中海の波濤が荒々しいことからこの地を「荒島村」と呼んだ。 |
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都辨志呂(つべしろ)神社 |
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所在地 島根県安来市広瀬町広瀬字目谷口1415 社格 式内社旧村社 祭神 素盞嗚尊 岐戸大神 歴史 社伝より 上古素盞嗚尊が岩坂の方から駒返り峠を越えて飯梨川筋へ出られ、流域を巡行せられし際、現在の広瀬町中町字札場のあたりで休息し安来方面に向かって出発せられし際、その腰掛け給いしところに御杖を忘れおき給いしを、郷人、こは尊の御杖なれば畏しとて、その御杖と腰掛け給いし石とを霊代として、その東方約一町の地、すなはち現在の鍛冶町後丁の地に社殿を建て、素盞嗚尊を主神とし、これにそのとき道案内をし給いし岐神を配してお祀りしたとなっている。 補足 |
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能義(のぎ)神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県安来市能義町366 社格 式内社 県社 祭神 主祭神=天穂日命 配祀=大己貴命 事代主命 『出雲国風土記』意宇郡野城駅条に野城大神が登場する。 元来の祭神はこの野城大神であったと考えられるが、野城大神と天穂日命は同一神であるという説がある。 歴史 『出雲国風土記』意宇郡条の在神祇官社の「野城社」、『延喜式神名帳』出雲国意宇郡の「野城神社」に比定されるが、同じく『延喜式神名帳』出雲国能義郡の「天穂日命神社」に比定する説もあり、吉佐村の国津大明神(現支布佐神社)との間に正徳年間と明治初期の2回にわたり論社争いがあった 補足 |
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金屋子(かなやご)神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県安来市広瀬町西比田213-1 社格 村社 祭神 主祭神=金山彦命、金山姫命 歴史 補足 1:金屋子神 金屋子神は、高天原から、雨乞いをしている村人に応えて、播磨国志相郡岩鍋(現在の兵庫県宍粟市千種町岩野邊)にまず天降った。 しかし、自ら、元々西方に縁のある神であるとの理由で、白鷺に乗って、西方の出雲国能義郡黒田奥比田(現 金屋子神社の社地)の山林に着き、桂の木にて羽を休めていたところを宮司の祖先である安倍正重が発見し、長田兵部朝日長者が桂の木の横に神殿を建立したという(途中、吉備国中山にも立寄ったとの伝説がある)。 各地で、金屋子神は、自ら村下(むらげ:鍛冶の技師長)となり、鍛冶の指導を行ったとされる。 |
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揖屋(いや)神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県八束郡東出雲町大字揖屋町2229 社格 式内社 県社 意宇六社の一つ 神階=正五位下 祭神 伊弉冉命 歴史 『日本書紀』斉明天皇5年の条に「又、狗、死人の手臂を言屋社に噛み置けり。」とある「言屋社」、『出雲国風土記』意宇郡の条の在神祇官社「伊布夜社」、延喜式神名帳の出雲国意宇郡の「揖屋神社」に比定される。 補足 記紀神話の神産みや大国主の神話に登場する黄泉の国、もしくは根の国との境である黄泉比良坂の比定地が当社の東方の小字平賀にあり、石碑が建てられている |
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筑陽(ちくや)神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県東出雲町大字下意東字宮山815 社格 式内社 旧村社 祭神 主祭神=事代主命 合殿=波夜都武自和氣命 歴史 古くは、南方1Kmの馬場山に鎮座していたが、意東川の川辺に遷座。 その後、寛永6年(1666)の筑陽川の氾濫による大洪水の時現在の位置になった。 補足 「出雲国風土記」には「調屋社」の名で記されている。 |
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松江市周辺の神社 (旧松江市、八束郡鹿島町・島根町・美保関町・八雲村・玉湯町・宍道町・八束町) | ||||||||||||||||||||
出雲国一宮 熊野大社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県松江市八雲町熊野2451番 社格 式内社 名神大社(熊野坐神社) 国幣大社 別表神社 神階=正二位(貞観9年) 祭神 主祭神=熊野大神櫛御気野命 「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」とし、素戔嗚尊の別名であるとしている。 本来、櫛御気野命は素戔嗚尊とは無関係であったものとみられるが、先代旧事本紀・神代本紀には「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、かなり古い時代から櫛御気野命が素戔嗚尊と同一視されるようになったと考えられる。 「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。 「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。 歴史 和歌山の熊野三山も有名だが、熊野大社から和歌山に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。 社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。 |
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神魂(かもす)神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県松江市大庭町563 社格 県社で、意宇六社の一社。 祭神 主祭神=伊弉冊大神 伊弉諾大神 歴史 社伝によれば、天穂日命がこの地に天降って創建したものと伝えられるが、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社は記載されておらず、文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍下文であり、実際の創建は平安時代中期以降とみられている。 当社は出曇国府に近い古代出雲の中心地であり、社伝では、天穂日命の子孫が出雲国造として25代まで当社に奉仕したという。 出雲国造家は現在は出雲大社の宮司家であるが、現在でも国造家の代替わりのときの「神火相続式」「古伝新嘗祭」は、明治初年までは当社に参向して行われていた。 |
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八重垣神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県松江市佐草町227 社格 式内社(論社) 県社 意宇六社の一社 神階=正五位上 祭神 主祭神=素盞嗚尊 櫛稲田姫 配祀=大己貴命 青幡佐久佐日古命 歴史 素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで櫛稲田姫との住居を構えたという須賀(現在の雲南市大東町須賀)の地(須我神社)に創建された。 後に、青幡佐久佐日古命が祀られる佐久佐神社の境内に遷座したという。 佐久佐神社という名前は延喜式神名帳に記載されているが、式内・佐久佐神社は当社の他、同市大草町の六所神社も論社となっている。 佐草氏が神職として奉仕し、近世には八重垣大明神と称された。 |
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平濱八幡宮と武内神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 松江市八幡町宮内303 社格 県社 祭神 平濱八幡宮 祭神=八幡神:応神天皇 仲哀天皇 神功天皇 境内社:武内神社 祭神=武内宿禰 歴史 創建年代は不詳。 天永2年(1111年)、陰陽寮で当社の遷宮の日時を占ったという記録があり、それ以前には創建されていたことになる。 出雲国最古の八幡宮とされる。 この地は京都の石清水八幡宮の社領であり、当社は「平浜別宮」と呼ばれ、石清水八幡宮の社家の支流が奉祭していた。 |
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美保神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県松江市美保関町美保関608 社格 式内社 国幣中社 別表神社 祭神 右殿に大国主神の子の事代主神 左殿に大国主神の后の三穂津姫命 三穂津姫命は大国主神の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)である「大物主神」の后。 事代主命は神屋楯比売神(かむやたてひめ)と大国主神との間の子供なので義理の母親にあたる。 歴史 『出雲国風土記』には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。 元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものとみられる。 |
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佐太神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県松江市鹿島町佐陀宮内73 社格等 式内小社、国幣小社、別表神社 神階 貞観元年(859年)従五位下 貞観9年(867年)従五位上 貞観13年(871年)従四位下 祭神 正殿=佐太御子大神 北殿=天照大神 南殿=素盞鳴尊 正殿の主祭神である佐太御子大神は『出雲国風土記』に登場する佐太大神と考えられる。 佐太大神は神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれた。 神名の「サダ」の意味には「狭田、すなわち狭く細長い水田」という説と「岬」という説とがある。 歴史 秋鹿郡佐田大社之記に垂仁54年の創建で、養老元年(717年)に再建されたとある。 『出雲国風土記』の記述からもとは神名火山(現:朝日山)のふもとに鎮座していたと考えられる。 補足 明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、平田篤胤の『古史伝』の説に従って祭神を猿田彦命と明示するように指示されたが、神社側はそれを拒んだ。 |
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玉作湯神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県松江市玉湯町玉造508 社格 式内社 県社 祭神 主祭神=櫛明玉命(くしあかるだまのみこと) 大名持命 少彦名命 配祠=五十猛神 歴史 意宇郡の式内社。 風土記では玉作湯社知社と由宇社して記載されている。 補足 明治以後、天皇即位の式典に際し、ここで作られた瑪瑙(めのう)・碧玉(へきぎょく)製品が献上された。 当社の根元は玉作神と湯神の二元信仰である。 |
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出雲市・雲南市周辺の神社 | ||||||||||||||||||||
出雲国一宮 出雲大社 | ||||||||||||||||||||
詳細は、「出雲大社」へ |
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日御碕神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県出雲市大社町日御碕455 社格 式内小社 国幣小社 別表神社 祭神 天照大御神 神素盞嗚尊 歴史 下の本社(日沈の宮・日沉の宮、ひしずみのみや)村上天皇天暦2年勅命により祀り、上の本社(神の宮)安寧天皇13年勅命により祀られ、総称して日御碕大神宮とされたとされる。 補足 出雲大社の「祖神(おやがみ)さま」として崇敬を集める。 |
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須佐神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県出雲市佐田町須佐730 社格 式内社 国幣小社 別表神社 出雲國神仏霊場第十八番。 祭神 主祭神=須佐之男命 配祀=稲田比売命、足摩槌命、手摩槌命 歴史 『出雲国風土記』に、須佐之男命が各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。 古来より須佐之男命の本宮とされた。 社家の須佐氏は、須佐之男命の子の八島篠命を祖とすると伝える。 旧社地は神社の北方にある宮尾山にあったとされる。現社地は盆地のほぼ中央部にあり、中世の時点ではすでにこの地にあったと考えられる。 『出雲国風土記』に「須佐社」と記載されている。延喜式神名帳に「須佐神社」と記載され、小社に列している。 中世には「十三所大明神」「大宮大明神」、近世には「須佐大宮」と称した。 明治4年に延喜式に記載される「須佐神社」に改称し、明治5年郷社に列格し、翌明治6年県社に、明治33年に国幣小社に昇格した。 補足 |
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須我神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県雲南市大東町須賀260 社格 県社 祭神 主祭神=須佐之男命 稲田比売命 清之湯山主三名狭漏彦八島野命 配祀=武御名方命 歴史 創建年代不詳 日本神話において、スサノオが八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するものである。 これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということで、「和歌発祥の地」とされている。 この宮殿がそのまま神社になったものと伝える。 補足 風土記の時点では神祇官の管轄ではなく、延長5年(927年)の延喜式神名帳には記載されていない。 本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる。 |
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韓竈(からかま)神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県出雲市(旧平田市)唐川町408 社格 式内社 旧村社 祭神 主祭神=素蓋嗚命 歴史 出雲国風土記(733年)には韓銍社 延喜式神名帳(927年)には韓竈神社と記されており、創立は不詳。 補足 カラカマは朝鮮から渡来した「釜」を意味するとされている。 即ち これは 祭神の素蓋嗚命が 御子神と共に 新羅に渡られ 我が国に「植林法」を伝えられると共に「鉄器文化」を開拓されたと伝えられていることと、関係があろう。 又当社より奥部の北山山系が 古くから産銅地帯といわれ金掘り地区の地名や 自然銅、野タタラ跡、などが見られることと、鉄器文化の開拓と深い関係があるといわれている。 |
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奥出雲町の神社 | ||||||||||||||||||||
湯野神社 | ||||||||||||||||||||
所在地 島根県仁多郡仁多町大字亀嵩1284 社格 郷社 神階=従五位上 祭神 主祭神=大己貴命 少彦名命 爾々藝命 合祀=事代主命 三保津比賣命、大年神、御年神、若年神、香香背男命、素盞嗚命、國常立命、 國狹槌命、豐斟渟命、武甕槌命 歴史 創立年代は詳らかでないが、六国史及び出雲風土記所載の神社にして、亀嵩温泉の医薬の主護神として創建された神社である。 亀嵩の各集落にあった神社(村社)の総氏神であった 補足 「砂の器」の撮影現場である亀嵩にある神社。 |
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参考資料 | ||||||||||||||||||||
「日本の神々 神社と聖地 第7巻 山陰」 (白水社 2007 谷川健一 坂田友宏 川上迪彦他) 「日本古代神社辞典」 (中日出版社 2002 古田和典) 「神社辞典」 (東京堂出版 1997) 「出雲大社の謎」 (DHC社 1994 山崎謙) |
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出雲国の神社 |