山背大兄王 |
概説 |
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生没年
生年不詳-643年(皇極2年12月30日)
墓所
墓は不詳であるが、法輪寺近郊にある「岡の原」という小山が山背大兄王墓であるという伝承がある。
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系譜 |
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父=聖徳太子 (日本書紀には、厩戸皇子(聖徳太子)の子であるという記述はない)
母=刀自古郎女
兄弟姉妹
母1=刀自古郎女(とじこ いらつめ)・・・・父は蘇我馬子、母は物部氏の娘
子1=山背大兄王
子2=財王
子3=日置王
子4=片岡女王
母2=橘大郎女(たちばなの おおいらつめ)・・・・父は敏達天皇の皇子である尾張皇子、
子1=白髪部王
子2=手嶋女王
母3=膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)・・・・膳臣傾子(加多夫子とも、かしわでのおみかたぶこ)の娘
子1=長谷王
子2=三枝王
子3=伊止志古王
子4=麻呂古王
子5=春米女王
子6=久波太女王
子7=波止利女王
子8=馬屋古女王
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系図
蘇我稲目------------ 26継体天皇
↓ ↓ ↓ ↓
馬子 子姉君------堅塩姫----------ーー29欽明天皇-----石姫
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
蝦夷 穴穂部間人皇女---31用明天皇 33推古天皇-----30敏達天皇---広姫
↓ ↓ ↓
入鹿 刀自古郎女----聖徳太子 糠手姫皇女------押坂彦人大兄皇子
↓ ↓ ↓
山背大兄王 34舒明天皇 茅渟王----吉備姫王
↓
古人大兄皇子
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生涯 |
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628年(推古36年)
推古天皇崩御
推古天皇が病没した後にその後継問題が発生し、蘇我氏の庶流境部摩理勢らは山背大兄王を擁立する。
その結果、蘇我蝦夷の擁立する田村皇子(34代舒明天皇)らと皇位を争う。
629年(舒明元年)
蝦夷から山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあって皇位は田村皇子が継承することとなり、34代舒明天皇が即位する。
蘇我氏の実権が蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿はより蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企て、その中継ぎとして皇極天皇を擁立した。
このため、王と蘇我氏の関係は決定的に悪化する。
643年11月1日
ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師娑婆連、大伴長徳に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。
山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘、莵田諸石、伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。
家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言する。
しかし、山背大兄王は戦闘を望まず、
「われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん」
と言った。
山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。
結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。
蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。
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山背大兄王に関する諸説 |
蘇我蝦夷が山背大兄王を避けた理由 |
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蘇我蝦夷が山背大兄王を避けた理由については、山背大兄王がまだ若く未熟であった、あるいは山背大兄王の人望を嫌ったという説と、推古天皇に続いて蘇我氏系の皇族である山背大兄王を擁立することで反蘇我氏勢力との対立が深まる事を避けたかったためという説がある。
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山背大兄王暗殺の背景 |
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当時の天皇は長男による世襲制度ではなく、皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。
その基準は人格のほか年齢、代々の天皇や諸侯との血縁関係であった。
これは天皇家の権力が絶対ではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場であったためである。
また、推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があったとも言われている。
更に山背大兄王の暗殺には、多数の皇族が加わっていたと言われており、山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、皇位継承における優位を画策する諸皇族の思惑が一致したからこそ出来た事件であろう。
当時の後継者選びの基準が上宮王家一族を悲劇へと追い込んだのである。
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参考資料 |
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「隠された十字架―法隆寺論」 (新潮社 1972 梅原猛)
「逆説の日本史2 古代怨霊編」 (小学館 1994 井沢元彦)
「日本書紀 上・中・下」 (教育社 1992 山田宗睦訳)
Wikipedia 「聖徳太子」 「山背大兄王」 |
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