聖徳太子 | ||||
概説 | ||||
名前 本名 厩戸(うまやど) 別名 豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう) 古事記での呼称 上宮之厩戸豊聡耳命 日本書紀での呼称 厩戸皇子、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王 名前の変遷 聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立したと言われる。 生没年 574年(敏達3年)-622年(推古30年) (621年説あり-『日本書紀』) 摂政 593年から摂政として政治に携わる。 墓所 叡福寺北古墳(大阪府南河内郡太子町太子2146) 叡福寺が聖徳太子磯長廟として祀り聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により天皇家の陵墓(磯長陵)に指定されている。 聖徳太子の墓所とするのは後世の仮託だとする説もある。 古墳は約直径55メートルの円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。 中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆製(麻布を漆で貼り固めたもの)の棺には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。 |
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系譜 | ||||
父=用明天皇 母=穴穂部間人皇女 妻1=刀自古郎女(とじこ いらつめ)・・・・父は蘇我馬子、母は物部氏の娘 子1=山背大兄王 子2=財王 子3=日置王 子4=片岡女王 妻2=橘大郎女(たちばなの おおいらつめ)・・・・父は敏達天皇の皇子である尾張皇子、 子1=白髪部王 子2=手嶋女王 妻3=膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)・・・・膳臣傾子(加多夫子とも、かしわでのおみかたぶこ)の娘 子1=長谷王 子2=三枝王 子3=伊止志古王 子4=麻呂古王 子5=春米女王 子6=久波太女王 子7=波止利女王 子8=馬屋古女王 妻4=菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)・・・・敏達天皇と推古天皇の子 |
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系図 蘇我稲目------------ 26継体天皇 ↓ ↓ ↓ ↓ 馬子 子姉君------堅塩姫----------ーー29欽明天皇-----石姫 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 蝦夷 穴穂部間人皇女---31用明天皇 33推古天皇-----30敏達天皇---広姫 ↓ ↓ 入鹿 刀自古郎女----聖徳太子 ↓ 山背大兄王 |
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事績 | ||||
574年(敏達3年) 橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。 橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。 585年(用明元年) 敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。 この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。 587年(用明2年) 用明天皇崩御。 皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺。 諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。 厩戸皇子もこの軍に加わった。 討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。 討伐軍は三度撃退された。 これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。 討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された。 軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。 戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。 しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。 592年(崇峻5年) 馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を暗殺させた。 その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。 593年(推古元年) 厩戸皇子は皇太子となり、、また摂政として、馬子と共に天皇を補佐した。 同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。 594年(推古2年) 仏教興隆の詔を発した。 595年(推古3年) 高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。 596年(法興6年・推古4年) 伊予湯岡訪問 600年(推古8年) 新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。 601年(推古9年) 斑鳩宮を造営した。 602年(推古10年) 再び新羅征討の軍を起こした。 同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。 後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。 この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。 603年(推古11年) 冠位十二階を定めた。 氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。 604年(推古12年) 十七条憲法を制定した。 豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調した。(後世の偽作説もある) 605年(推古13年) 斑鳩宮へ移り住んだ。 607年(推古15年) 法隆寺(斑鳩寺)創建。 同年小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送った。 翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。 615年(推古23年) 厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、615年までに三経義疏を著した。 620年(推古28年) 厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選んだ。 622年(推古30年) 斑鳩宮で厩戸皇子が倒れた。 厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没した。49歳。 その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。 |
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聖徳太子に関連する人物 | ||||
蘇我氏の関連人物 | ||||
蘇我稲目 蘇我馬子 蘇我小姉君 蘇我堅塩姫 蘇我蝦夷 蘇我倉麻呂 刀自古郎女 河上姫 法堤郎女 穴穂部皇子 蘇我入鹿 詳細は、「蘇我氏」へ |
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その他の関連人物 | ||||
東漢駒 僧慧慈 秦河勝 裴世清 小野妹子 詳細は、「古代人物総論4-飛鳥時代の人物」へ |
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聖徳太子に関連する文献 | ||||
概要 | ||||
聖徳太子については、『日本書紀(巻22推古紀)』、「十七条憲法」、『古事記』、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、「天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)」、「法隆寺薬師像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像台座内墨書」、「道後湯岡碑銘文(=伊予湯岡碑文、伊予国風土記逸文に記録。)」、「法起寺塔露盤銘」、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。 これらには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に制作されたとする説があるものもあり、異説、反論もある。 |
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聖徳太子の事が記載してある文献 | ||||
上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ) | ||||
概説 写本は江戸時代末期まで法隆寺秘蔵物で天下の“孤本”といわれ、現在京都の知恩院に所蔵されている国宝である。 成立年代も不明であまり世のなかに広まった様子はない。 写本の所有者だったと思える高僧(相慶・法隆寺五師の一人、12世紀後半の人物)の名が末尾に記されている事から、成立年代が12世紀以前である事が確実ではある。 近代史学の発展に伴い、官製の『古事記』や『日本書紀』などの文献批判が行われ、記紀以前の古い史料が基礎になっていると思料される本書が、信用度の高い古典として脚光を浴びてきた。 構成 第一部 厩戸豊聰耳聖徳法王の系図を文章で表現している。 特に妻や女子の名も記しているところが後の父子のみの系図と異なる。 第二部 厩戸豊聰耳聖徳法王の事績。 仏教的事績のほかに冠位十二階について詳述。 第三部 法隆寺の御物の銘文を収めている。 特に天寿国曼荼羅繻帳の銘文は現物が断片的にしか残存してないのでその記録は貴重である。 第四部 断片的な歴史の記録が箇条書き的に記録されており、十七条憲法や蘇我入鹿事件の年代あるいは、「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」に百済の聖王からの仏教公伝、山代大兄(山背大兄王)事件等が記されている。 第五部 欽明天皇(志帰島天皇治天下卅一年(辛卯年四月崩陵桧前坂合岡也)」)から推古天皇の治世年数とそれぞれの崩御年そして陵の所在地を書いている。 ここでは、欽明天皇の治世年数(辛卯年より卅一年(31年)前)から逆算した即位年が『日本書紀』(宣化天皇4年に即位)と相違し、学者の論争の的となっている。 ※逆算による欽明天皇の即位年は531年で『日本書紀』では継体天皇25年にあたる。安閑・宣化両天皇のあとの宣化天皇4年(539年)に即位したとする『日本書紀』とは整合しない。 南北朝のように安閑・宣化朝と欽明朝が並立し内乱状態にあったという説や、単に暦法上の問題とする説などがある。 |
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上宮記(じょうぐうき・かみつみやのふみ) | ||||
概要 7世紀頃に成立したと推定される日本の歴史書。 『日本書紀』や『古事記』よりも成立が古い。 鎌倉時代後期まで伝存していたが、その後は散逸し、『釈日本紀』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』に逸文を残すのみである(『天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文』所引の「或書」も上宮記と見なす説がある)。 特に『釈日本紀』巻十三に引用された継体天皇の出自系譜は、『古事記』・『日本書紀』の欠を補う史料として研究上の価値が高い(この系譜は「上宮記曰く、一に云ふ~」の形で引用されているので、厳密に言えば、『上宮記』が当時存在した別系統の某記に拠った史料である。 つまり、某記の継体天皇系譜を『釈日本紀』は孫引きしているということになる)。 構成等 編者は不詳。 上・中・下の3巻から成る。 書名の「上宮」は厩戸皇子が幼少・青年期を過ごした宮であるが(現奈良県桜井市)、『平氏伝雑勘文』に「太子御作」としているのは仮託であろう。 本書の性格についても、聖徳太子の伝記とする説、上宮王家に伝来した史書とする説などがあって一定しない。 神代の記述も存在したらしいが、まとまった逸文は継体天皇・聖徳太子関連の系譜で占められ、その系譜様式や用字法の検討から、本書の成立は藤原宮跡出土の木簡より古いこと、さらに推古天皇の時代まで遡る可能性も指摘されている。 |
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播磨国風土記 | ||||
播磨国風土記(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社(おうしこじんじゃ)の「石の宝殿(石宝殿)」について以下の記述あり。 「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」 「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子と考えられることから、『日本書紀』(養老4年、720年)が成立する以前に厩戸皇子が「聖徳王」と呼称されていたとする論がある。 大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子(厩戸皇子)の諡号を聖徳王としたとある。 |
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隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國 | ||||
隋書に記述された俀王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と言われている。 |
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聖徳太子自信の著作とされる文献 | ||||
三経義疏(さんぎょうぎしょ) | ||||
聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(伝615年)、『勝鬘経義疏』(伝611年)、『維摩経義疏』(伝613年)の総称である。 それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)である。 法華義疏は伝承によれば615年に作られた日本最古の書物となる。 聖徳太子自筆の草稿本と考えられているが、異説もある。 『三経義疏』はいずれもこれら6世紀前半ごろの中国の書物と相並ぶものとなる。 先行するものはそれまで日本にはなく、この後にこの種の書が日本で著されるまでに長い空白があるのは不自然であるという指摘は、古くからあった。 これについて、以下のように諸説はあるが決着を見ていない。 1:中国の書が600年ないし607年の隋との交流から日本にもたらされ、これらを参考に聖徳太子が著作した。 2:そのころ朝鮮半島から来日した僧が聖徳太子の下で著作した。 3:そのころ中国から入手した書の中から聖徳太子が選び出した。 4:753年までのいずれの時代かに中国から渡来した輸入品である。 |
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四天王寺縁起 | ||||
聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世(平安時代中期)の仮託と見られている。 |
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十七条憲法 | ||||
日本書紀(推古天皇12年(604年))中に全文引用されているものが初出。 上宮聖徳法王帝説には、乙丑の年(推古13年(605年)の七月に「十七餘法」を立てたと記されている。 |
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天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部并公民等本記 | ||||
『日本書紀』中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。 |
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先代旧事本紀 | ||||
序文で聖徳太子と蘇我馬子が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。 |
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未来記 | ||||
特定の書ではなく、聖徳太子に仮託した「未来記」を称する鎌倉時代に頻出する偽書群。 |
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聖徳太子に関する諸説 | ||||
聖徳太子にまつわる伝説 | ||||
概説 | ||||
聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている古事記・日本書紀の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。 そのため様々な研究・解釈が試みられている。 また、各地に聖徳太子が建てたという寺院が多いが、後世になって縁起で創作されたものが多いと思われる。 平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている。 |
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豊聡耳 | ||||
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。 この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。 しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。 『上宮聖徳法王帝説』、『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。 また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。 なお一説には、豊臣秀吉の本姓である「豊臣」(とよとみ)はこの「豊聡耳」から付けられたと言われる。 |
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兼知未然 | ||||
『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。 この記述は後世に「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が噂される一因となった。 『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。 また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。 これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。 しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。 江戸時代に、人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、編纂者の潮音らが処罰された『先代旧事本紀大成経』にある『未然本記』も未来記を模したものとみることができる。 |
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四天王寺 | ||||
蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。 見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺(大阪市天王寺区)を建てた。 |
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南嶽慧思の生まれ変わり | ||||
聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思の生まれ変わりであるとする。 『四天王寺障子伝(=『七代記』)』、『上宮皇太子菩薩伝』、『聖徳太子伝暦』などに記述がある。 |
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出生の伝説について | ||||
「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は救世観音が胎内に入り、厩戸を身籠もった」などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる。
しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。 |
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片岡飢人(者)伝説 | ||||
推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。 姓名を問われても答えない。 太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。 翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。 数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。 使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。 しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。 太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。 人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。 後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている。 |
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聖徳太子虚構説 | ||||
虚構説とは | ||||
近年の歴史学研究においては、太子の実績と考えられていたことを否定する文献批判上の研究や、太子の実在を示す歴史的資料の研究から、日本書紀等の聖徳太子像を虚構とする説もある 聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既にみえており、「聖徳太子信仰」が後世の人々により形作られていった。 8世紀には、聖徳太子は「日本の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに、『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝が成立した。 |
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江戸後期の考証学者狩谷鍵斎らによる説 | ||||
十七条憲法を太子作ではないとする説。 |
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津田左右吉の説(1930年) | ||||
津田左右吉は1930年の『日本上代史研究』において十七条憲法を太子作ではないと主張した。 その結果、『日本上代史研究』ほか著書四冊は発禁となり、津田左右吉は早稲田大学を辞職している。 |
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高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年) | ||||
聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・善徳が真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。 |
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大山誠一の『「聖徳太子」の誕生』(1999年) | ||||
大山説の概要 有力な王族、厩戸王は実在した。 信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。 『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。 その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧 道慈らである。 十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作された。 藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。 厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構である」と主張している。 さらにこれら2つにしても、『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しない。 そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。 また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。 大山は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。 しかし、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。 |
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聖徳太子虚構説と歴史的資料 | ||||
概要 | ||||
聖徳太子については『日本書紀(巻22推古紀)』、「十七条憲法」、『古事記』、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、「天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)」、「法隆寺薬師像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像台座内墨書」、「道後湯岡碑銘文(=伊予湯岡碑文、伊予国風土記逸文に記録。)」、「法起寺塔露盤銘」、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。 これらには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に制作されたとする説があるものもあり、異説、反論もある。 |
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日本書紀における聖徳太子像について | ||||
大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。 しかし、森博達は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。 「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武天皇朝(697年~707年)に文章博士の山田史御方(やまだのふひとみかた)がβ群の述作を開始したとする。 |
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十七条憲法を太子作ではないとする説 | ||||
江戸後期の考証学者に始まる。 津田左右吉は1930年の『日本上代史研究』において太子作ではないとしている。 井上光貞、坂本太郎らは津田説に反論している。 また関晃は狩谷鍵斎、津田左右吉などの偽作説について、「その根拠はあまり有力とはいえない」とする。 一方、森博達は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている。 |
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道後湯岡碑銘文 | ||||
伊予湯岡碑文とは 『釈日本紀』や『万葉集註釈』が引用した「伊予風土記逸文」には、推古4年(596年)聖徳太子(厩戸皇子)と思われる人物が伊予(現在の愛媛県)の道後温泉に高麗の僧・慧思と葛城臣なる人物を伴って赴き、その時湯岡の側にこの旅を記念して「碑」を建て、その碑文が記されていたされてる。 碑の現物は亡失し、文面のみ『釈日本紀』巻14所引の『伊予風土記』逸文に残っている。 否定説 大山説では、道後湯岡碑銘文は仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264年~1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11年~正安3年頃(1274年~1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。 |
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聖徳太子怨霊説 | ||||
1972年に梅原猛が発表した論考『隠された十字架』は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、出雲大社との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じる為の寺なのではないかとの説を主張した。 |
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参考資料 | ||||
「新訂増補国史大系 日本書紀 前篇」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美) 「新訂増補国史大系 日本書紀 後編」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美) 「隠された十字架―法隆寺論」 (新潮社 1972 梅原猛) 「逆説の日本史2 古代怨霊編」 (小学館 1994 井沢元彦) 「日本書紀 上・中・下」 (教育社 1992 山田宗睦訳) Wikipedia 「聖徳太子」 |
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聖徳太子 | ![]() |
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聖徳太子 当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行なった。 父、母、妻すべてが蘇我氏の血縁者。 隋の進んだ文化をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。 仏教の興隆につとめ、『国記』、『天皇記』の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげた。 しかし、聖徳太子虚構説もあり、実在性に疑問の余地もある人物である。 (参照:皇室・有力氏族系図まとめ) |
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