第29代 欽明天皇 (主として日本書紀による記載) | |
概説 | |
諡号 古事記での呼称 天国押波流岐広庭天皇(あめくにおしはるきひろにわのすめらみこと) 日本書紀での呼称 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。 別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(しきしまのすめらみこと) 生年 509年(継体天皇3年) 即位 即位=539年(宣化天皇4年) 皇居=磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)・・・・現在の奈良県桜井市金屋・外山 崩御 崩御=571年(欽明天皇32年) 陵墓=檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)に葬られた。 同陵は奈良県高市郡明日香村平田の梅山古墳(前方後円墳・全長140m)に治定されてい。. しかし橿原市の見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)とする説もある。 なお、檜隈坂合陵には後に612年(推古天皇20年)に堅塩媛が改葬されている。 |
|
系譜 | |
概略 継体天皇の嫡子 父=継体天皇 母=手白香皇女(たしらかのひめみこ)・・・・仁賢天皇の皇女、雄略天皇の孫娘 皇后=石姫皇女(いしひめのひめみこ)・・・・宣化天皇の皇女 皇子①=箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ=八田王) 皇子②=渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと=敏達天皇) 皇女①=笠縫皇女(かさぬいのひめみこ=狭田毛皇女) 妃1=稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ=小石比賣命)・・・・宣化天皇の皇女 皇子①=石上皇子(いそのかみのみこ=上王) 妃2=日影皇女(ひかげのひめみこ)・・・・宣化天皇の皇女? 皇子①=倉皇子(くらのみこ。=宗賀之倉王)・・・・母は糠子郎女? 妃3=堅塩媛(きたしひめ)・・・・蘇我稲目宿禰の女 皇子①=大兄皇子(おおえのみこ、用明天皇) 皇女①=磐隈皇女(いわくまのひめみこ、夢皇女)-伊勢斎宮 皇子②=臘嘴鳥皇子(あとりのみこ、足取王) 皇女②=額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、推古天皇) 皇子③=椀子皇子(まろこのみこ、麻呂古王) 皇女③=大宅皇女(おおやけのひめみこ) 皇子④=石上部皇子(いそのかみべのみこ、伊美賀古王) 皇子⑤=山背皇子(やましろのみこ、山代王) 皇女④=大伴皇女(おおとものひめみこ) 皇子⑥=桜井皇子(さくらいのみこ、桜井之玄王)・・・・吉備姫王の父 皇女⑤=肩野皇女(かたののひめみこ、麻奴王) 皇子⑦=橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ) 皇女⑥=舎人皇女(とねりのひめみこ、泥杼王)・・・・当麻皇子の妃 妃4=小姉君(おあねのきみ)・・・・蘇我稲目宿禰の女 皇子①=茨城皇子(うまらきのみこ、馬木王) 皇子②=葛城皇子(かずらきのみこ) 皇子③=穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)・・用明の皇后、聖徳太子の母、田目皇子の妃 皇子④=穴穂部皇子(あなほべのみこ、須賣伊呂杼・天香子皇子・住迹皇子) 皇子⑤=泊瀬部皇子(はつせべのみこ、長谷部若雀命=崇峻天皇) 妃5=糠子(ぬかこ)・・・・春日日抓臣の女) 皇女①=春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ) 皇子①=橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ=麻呂古王) |
|
事績 | |
539年(宣化4年) 12月 即位。 540年(欽明元年) 大伴金村失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。 541年(欽明2年) 稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とする。 百済の聖明王の間で、任那の復興について協議。 552年(欽明13年) 仏教公伝:百済から仏像と経文が伝来する。(伝来は宣化3年AD538年説が有力) 553年(欽明14年) 暦博士の任期が切れたので交代の博士を派遣するように百済に使者を送る。 (元嘉暦と思われる) 554年(欽明15年) 新羅との戦で、聖明王が亡くなる 百済より、暦博士固徳王保孫(ことくおうほうそん)ら来日。 562年(欽明23年) 任那を滅亡。 新羅に討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。 571年(欽明32年) 4月 崩御 |
|
補足 | |
欽明天皇は、父は継体天皇、母は手白香皇女(たしらかのひめみこ)である。 父親の継体天皇は傍系出身であり、先々代仁賢天皇の皇女で、先代武烈天皇の姉(妹)である直系の手白香皇女を皇后に迎え入れた。 継体天皇は他に沢山の子がいたのにも関わらず、嫡子は手白香皇女との間の皇子であるこの欽明天皇であった。 庶兄の宣化天皇、安閑天皇もまた継体天皇と同じく手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れている。 宣化天皇が身罷った時に、先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を中継ぎとして推薦したが、これは辞退されたためまだ若い欽明天皇が539年(宣化天皇4年12月5日)に即位した。 ここに傍系の継体天皇と、直系の手白香皇女両名の血を引く天皇が誕生した。 この欽明天皇の系統は現在まで長く続く事となり、現天皇家の祖となる。 |
|
欽明天皇に関する諸説 | |
即位年をめぐる議論 | |
『日本書紀』によれば、欽明天皇は庶兄・宣化天皇が崩御した後即位したとされているが、同書の紀年には幾つかの矛盾が見られ、それを解決するための議論がいくつか提示されてきた。 平子鐸嶺の説 父の継体天皇の没年を『古事記』の527年(丁未年4月9日)とし、その後2年ずつ安閑・宣化が在位して、『日本書紀』での継体の没年(継体天皇廿五年春二月丁未)にあたる531年に欽明天皇が即位したと主張した。 喜田貞吉の説 欽明の即位年は531年という点では同意するが、彼の即位を認めなかった勢力が3年後の534年に安閑を擁立、彼は1年で崩御したが、続いて宣化を擁立する等欽明朝と安閑・宣化朝は一時並立し、宣化の崩御により解消されたと主張した。 林屋辰三郎の説 大筋では喜田説に同意するが、継体は暗殺されたと主張した。 水野祐の説 継体の没年については平子説に同意するが、その後は安閑が8年間在位し、535年に欽明が即位、宣化は架空の人物と見なした。 白崎昭一郎の説 安閑の在位は4年でその後はさらに4年宣化・欽明両朝が並立したとみなした。 黒岩重吾の説 『日本書紀』継体天皇廿五年での『百済本記』引用武から次のように推理した。 「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」 天皇および太子、皇子が同時に死んだという記述等を根拠にそれぞれ実際には即位していない安閑・宣化は暗殺・軟禁され、大伴金村は任那4県を賄賂と引き換えに割譲したことではなく、彼ら庶兄を推したために後継者争いに敗れて失脚したと主張した。 これらのうち、並立説については史料的根拠に乏しい事等を理由に反対する意見もあるが、もし書紀・水野説以外のいずれかが正しければ、欽明天皇は現在の皇室から少なくとも遡れる継体天皇以降の歴代天皇では昭和天皇・明治天皇に次いで長く在位した事になる。 しかし、いずれも推測の域を出ないのが現状である。 |
|
欽明朝と蘇我氏、尾張氏との関係 | |
欽明期の皇妃に蘇我氏出身の妃と尾張氏の血を受け継ぐ妃が存在する。 尾張氏由縁の妃 石姫皇女(いしひめのひめみこ) この系統は後の天智朝に続く。 蘇我氏由縁の妃 堅塩媛(きたしひめ) 小姉君(おあねのきみ) この系統は後の聖徳太子、あるいは天武朝に続く。 |
|
参考資料 | |
「日本書紀 上・中・下」 (教育社 1992)山田宗睦訳 「口語訳 古事記」 (文藝春秋社 2002) 「日本古代史の100人」 (歴史と旅臨時増刊号23巻2号 秋田書店 1996) 「古代人物総覧」 (別冊歴史読本21巻50号 1996) 「歴代天皇全史」 (歴史群像 学習研究社 2003) |
|
|
第29代 欽明天皇 | ![]() |
欽明天皇 この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。 (参照:皇室・有力氏族系図まとめ) |