古代法 | ||||
固有法と継受法 | ||||
日本では 7世紀末から 8世紀初めにかけて中国の隋・唐の律令を模範とする体系的な法典としての律令法典が編纂され施行された。 この律令法の施行期を中国律令法を継受して成った法の施行時期という意味で〈継受法の時代〉それ以前は〈固有法の時代〉という。古代日本における法の発達はこのように律令法を境として便宜的に2期に大別することができる。 |
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固有法の時代 | ||||
習慣から法へ | ||||
古代のみならず前近代社会においては一般に法と慣習は一体となっており両者は未分化の状態であったといわれる。 法や慣習の生成する基盤に2種がある。 @内部的基盤 人の集住により形成され、地域の共同団体または共同組織の内部に生成した秩序 A外部的基盤 政治的社会の発達にともない、上位政治的権力がもつ共同団体相互間に発生する紛争の調停機能 魏志倭人伝は3世紀の邪馬台国時代にはすでに刑法および身分制に相当する法または慣習の存したことを伝えている。 共同体秩序が犯された場合に大祓(おおはらえ)が行われる。 大祓は本来、共同体成員全員が参加しなければならなかったと推定される。 このことは大祓などの慣行が 1.を基盤として生まれたものであることを示している。 日本古代で、Aの外部的なものを基盤とする法・慣習は、上位の政治権力による@の内部的を基盤とする法・慣習に規制されながら、またその法・慣習を取り込みながら政治的かつ専制的な法として発達した。 |
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族長法 | ||||
Aを基盤として発達した法または慣習を族長法としてとらえる。 この族長法の特徴は @を基盤とする法または慣習を自己の法にとりこみつつこれを族長権力の維持のために活用した点にある。 |
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族長法から国造法へ | ||||
王法 族長法の展開に並行して5世紀ないし6世紀ころより畿内およびその周辺の諸豪族の政治的結合体であるヤマト王権の権力が族長の上位の政治権力として拡大する。 このヤマト朝廷権力のもとで発達した法を王法と称しているがこの王法もまた族長法をとりこみつつ自己の法を発達させたのであった。 各種制度、国造法の発達 王法の発達により大祓は大王が挙行する全国的大祓に転じてしまう。 また族長の王権に対する反逆すなわち〈謀反 むへん 〉にはその者を処刑しその者の支配領域を没収するという過酷な刑を採用して王権の強化とその専制化がはかられる。 さらに氏姓制、部民制、国造制等のさまざまな政治制度が創設されて支配秩序が強化される。 この間族長の一部は王権により国造として編成される。 国造の有した法は族長が王権により国造に任命されたことによって保障された領域支配を基礎としまた王権によって制約されるものとなった。 この点において国造が有した法は昔日の族長法とは異なっていた。 聖徳太子が制定した十七条憲法は上記のような王法の一つの到達点を示すものである。 この憲法はヤマト朝廷を構成する諸豪族および服属した国造等のみでなく国造治下の百姓、公民をも人格的臣従関係に基づいて王権のもとに編成しようとした組織規範であった。 |
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継受法の時代 | ||||
律令法の導入 | ||||
7世紀末から8世紀初めにかけて律令法が導入される。律令法導入の契機そのものは7世紀におけるヤマト朝廷内部での権力闘争による動揺と朝鮮三国および唐をめぐる動乱から生じた国際的危機の二つの危機の克服にあった。 また、律令法導入は結果的に従来の 1.、2.の二つを基盤とする法・慣習の流れを止揚し、新しい法的世界を形成した。律令法は天皇を頂点としそのもとに諸豪族を官僚として編成し、また人民を一元的に統治するため、国家の基本法として制定された制定法であったからである。 建前として律令法以外の法は存在しなくなった。 |
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律令法典 | ||||
近江令(668年) 庚午年籍(670年) 飛鳥鳥浄御原令(681年) 八色の姓(684年) 大宝律令(701年) 養老律令(757年) 三大格式 |
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公家法 | ||||
平安後期から江戸期にかけて、公家社会に通用していた法体系。 |
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中世法 (武家法の時代) | ||||
御成敗式目(1232年) | ||||
北条泰時が中心となって制定。 鎌倉時代に制定された武士政権のための法令(式目)のことである。 貞永元年(1232年)に制定されたため、貞永式目(じょうえいしきもく)ともいう。 これに続き、裁判の判例など慣習をまとめた追加法が成立する。 これらの法律は、後の法律にも大きく影響を及ぼした。 |
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建武式目(1336年) | ||||
1336年(建武3年)、室町幕府の施政方針を示した式目のこと。 御成敗式目と合わせて貞建の式条と呼ばれる。 |
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分国法 | ||||
戦国時代に戦国大名が領国内を統治するために制定した法律規範。 分国法には、先行武家法である御成敗式目および建武式目の影響が見られるが、一方では、自らの分国支配の実情を反映した内容となっている。 分国法が規定する主な事項には、領民支配、家臣統制、寺社支配、所領相論、軍役、などがある。 伊達家・・・・塵芥集 今川家・・・・今川仮名目録 など |
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武家諸法度(1615年) | ||||
江戸時代に江戸幕府が諸大名を統制するために定めた法令である。 元和令(1615年) 武家諸法度とは、江戸幕府が慶長16年(1611年)に諸大名から誓紙を取り付けた3ヶ条に、金地院崇伝が起草した10ヶ条を付け加えたもので、慶長20年(1615年)7月に2代将軍の徳川秀忠が伏見城で諸大名に発布した。 寛永令(1638年) 法度は大名、徳川家家臣を対象として、当初は13ヶ条であったが、将軍の交代とともに改訂され、3代将軍の徳川家光が参勤交代の制度や500石以上の大船建造の禁(商船については1638年に撤回)などの条文を加え、19ヶ条の定型となる。 寛文令(1663年) 徳川家綱がさだめた。 改定内容はキリスト教禁教の明文化。 天和令(1683年) 5代将軍の徳川綱吉は諸士法度と統合して「天和令」を制定。 殉死の禁止の明文化、末期養子の禁緩和の明文化。 正徳令(1710年) 6代将軍徳川家宣が定めた。 和文体にし、大名の遵守すべきことをより具体化した。 (実際には新井白石が改訂し、7代将軍家継が短命だった事もありそのまま用いられ続けた) 享保令(1717年) のちに、8代将軍徳川吉宗が「正徳令」を破棄して、「天和令」を永く伝えていく事を宣言し、以後武家諸法度の改訂は行われなくなった。 |
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古代法 年表 | ||||
固有法の時代 習慣 共同体内の内部秩序、共同体間の調停機能 族長法 王法と国造法(法令・制度・詔へ) これを基に、氏姓制、部民制、国造制等の確立。 冠位十二階(603年)(法令・制度・詔へ) 憲法一七条(604年)(法令・制度・詔へ) 王法の一つの到達点を示す。 継受法の時代 改新の詔(646年)(法令・制度・詔へ) 部民を廃止し、公民として一律に国家のもとに帰属させた。 良賤の法、薄葬令(645年) 班田収受の法(652年) 近江令(668年)(法令・制度・詔へ) 庚午年籍(670年) 飛鳥鳥浄御原令(681年)(法令・制度・詔へ) 八色の姓(684年) 大宝律令(701年)(法令・制度・詔へ) 養老律令(757年)(法令・制度・詔へ) 三大格式(延喜式へ) |
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参考資料 | ||||
Wikipedia 「日本法制史」 |
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