卑弥呼(ひみこ) |
表記・読み |
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表記 |
『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝、『三国史記』新羅本紀では表記は「卑彌呼」
『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。
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発音 |
日本語発音の場合
現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。
日巫女(ひみこ)
日御子(ひみこ)
姫子(ひめこ)
姫御子(ひめみこ)
日女子(ひめこ)・・・・駒澤大学教授の三木太郎の説。男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。
日向(ひみか・ひむか)・・・・松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。
中国語発音の場合
中国語発音を考慮すると、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。
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文献中の卑弥呼 |
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中国の文献 |
三国志 魏志倭人伝の卑弥呼
女王之所都 卑彌呼 事鬼道 能惑衆
卑弥呼は邪馬台国に居住、鬼道で衆を惑わしていた。
年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
既に年長大であったが夫を持たず、弟がいて彼女を助けていた。
自爲王以來 少有見者
王となってから後は、彼女を見た者は少なく
唯有男子一人給飮食 傳辭出入
ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。
居處宮室樓觀 城柵嚴設
宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた。
三国志 卷四 魏書四 三少 帝紀第四の俾弥呼
冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」
正始四年の12月に倭国王卑弥呼が使者を送って奉献した。
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朝鮮半島の文献 |
三国史記 新羅本紀(1145年成立)
二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使来聘
AD173年 倭の女王卑弥呼が、使者を送って、新羅に交際を求める。
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卑弥呼に関する年譜・事績 |
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57年 (建武中元二年)・・・後漢書より
倭奴国が金印を授与される。
107年(永初元年・・・後漢書)
倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。
その後、倭国は男性を王とした七、八十年が続く。
180年頃
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)に倭国大乱。・・・・後漢書より
178年-184年(光和年間)
卑弥呼が共立され、倭を治め始める。・・・・梁書より
239年(景初三年)
卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。
魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。
240年(正始元年)
帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
243年(正始四年)
倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
245年(正始六年)
難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
247年(正始八年)
倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。
難升米に詔書、黄旗を授与。
247年(正始八年)
またはその直後卑弥呼が死に、墓が作られた。
(『梁書』では正始年間(240年 - 249年)に卑弥呼死亡)
その後
男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千余人が死んだ。
卑弥呼の宗女「壹與」を十三歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
265年(泰始元年 )
倭の遣使が重ねて入貢。『晋書』邪馬台国からの最後の入貢。
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卑弥呼の比定 |
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卑弥呼の人物比定について |
卑弥呼の比定については、中国の史書に残るほどの人物であれば日本でも特別の存在として記憶に残っているはずであるという見解と、神話伝説を歴史的事実の反映であるとしてそれらしく解釈することは無意味だとする意見がある。
しかし、ここでは日本の史書でこれに匹敵する人物を幾人か列挙してみる。
この場合、卑弥呼として具有しなければ成らない要因を以下に記す。
女王である
鬼道を使う・・・・巫女的存在である。
独身である・・・・夫を持たず、弟がいて彼女を助けていた。
高齢者
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天照大神説 |
白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる説。
根拠
アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。
卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある。
ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている
魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。
この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。
つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。
これは後の大和政権で女性が即位する時と同じ状況である。
ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一人であり(もう一人はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である
この説に対する反証
そもそも「皇祖神たる太陽女神」なる観念そのものがさして古いとはいえない説がある。
事実、『隋書』にあり『日本書紀』に記述がない第一回目の遣隋使(名前の記述なし)の記事には、倭国の倭王が天と日を兄と弟としていた(「俀王以天爲兄
以日爲弟」)とある。
天照大神という神格は天武天皇の時代に始まるとする説もある。
また、天照大神は本来は男性の神とする説もある。
また、「ヒルメ」を「日の女」であるから巫女である、とする説は他に「~ノメ」を巫女とする用例がなく(ミヅハノメやイワツツノメなどは巫女とされた例はない)、根拠に乏しい。
「大日孁貴」の孁字が説文解字において巫女、妻の意があるとする説は説文解字に「女字也」とのみあることから、これは誤りである。
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倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)説 |
根拠
近年、卑弥呼と同一人物として推定される候補の中では最有力の説となってきている。
『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。
同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。
当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。
この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。
『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命について、三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作」という説話が記述されており、卑弥呼と同様な神秘的な存在と意識されている。
また崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」の「男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼と男弟の関係に一致する
従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。
箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている
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神功皇后説 |
根拠
『日本書紀』の「神功皇后紀」において、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用している。
このため、江戸時代までは、卑弥呼イコール神功皇后だと考えられていた。
この説にたてば、邪馬台国はヤマト王権が拠った畿内にあったことになる。
この説に対する反証
神功皇后は15代応神天皇の母である。
21代継体天皇の即位が507年であるとすると、応神天皇の即位は、6世代前である。
1世代の在位が15年としても、AD400年前後頃となる。
そうとすると、神功皇后が生存した時期は350年前後頃と考えられ、卑弥呼の活躍した時期とは大きくかけ離れてしまう。
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天造日女命(あまつくるひめみこと)説 |
海部氏勘注系図に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。
根拠
この人は別名、大倭姫(おおやまとひめ)という大和王権の女王と思われる名を持ち、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)とも呼ばれる。
この日女命を卑弥呼と音訳したとする。
日女とは後の姫、媛と同じで、個人名ではなく普通名詞である。
またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする。
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熊襲の女酋説 |
本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。
卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である。
宣長は、日本は古来から独立を保った国という考えを強く持っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し、倭王に封じられたという記述は、宣長の受け入れられるものではなかった。
宣長は「魏志倭人伝」の記述から邪馬台国は九州にあったと結論し、九州の熊襲の女酋長が勝手に神功皇后の使いを偽って魏へ通交したと考えた。
また、那珂通世は卑弥呼は九州の女酋であり朝廷や神功皇后とは無関係であるとする。
これらの説の考えは現在、九州王朝説へと引き継がれている。
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卑弥呼の死 |
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卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人
(卑弥呼は死に、直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が徇葬された)
死亡時期
247年説
橘高章と安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。
248年説
天文学者の斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では4日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。
井沢元彦も『逆説の日本史』でこの説を支持している。
しかし、現在の正確な計算では、いずれの日食も、邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。
埋葬場所
卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たり、邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓は古墳の可能性がある。
箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)とする説が有力である。
九州説では、平原遺跡を卑弥呼の墓とする説などがある
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壹與(台与 とよ) |
表記・読み |
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表記について |
壹與
三国志魏書東夷傳の倭人之条、(通称魏志倭人伝:晋代)では2写本系統とも「壹與」と記載されている。
発音は、い(ゐ)よ=壹與?。
代用表記は「壱与」。
臺與
梁書』諸夷伝 倭(姚思廉編纂、636年・唐代)、『北史』東夷伝(李延寿編纂・唐代)などに記述。
代用表記は「台与」。
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発音について |
「臺與」を「とよ」と読むのが通説となっているが、これには議論がある。
「台」であれば、「と」と読めるということに異論は無いようである。
しかし、「臺」と「台」は異なる文字である。
「臺」を「と」と読む根拠は、例えば藤堂明保『国語音韻論』に、「魏志倭人伝で、『ヤマト』を『邪馬臺』と書いてあるのは有名な事実である」と記載されていることに求められているが、これはすなわち「邪馬臺=ヤマト」という当時の通説に基づいた記述に過ぎないことが読み取れると言う指摘がある。
もしこの意見が妥当なら、漢和辞典の記載を根拠に「『邪馬臺』はヤマトと読める、『臺與』はトヨと読める」と言ったところで、大元にある通説の同義反復に過ぎないことになるが、「臺」の発音に関する中国語音韻論による議論はこの意見とは無関係である。
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事績 |
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247年または248年
女王卑弥呼が死ぬと男子の王が立てられた。
邪馬壹國の人々はこれに服さず、内乱状態になり1000人が死んだ。
このため再び女王が立てられることになり、卑弥呼の親族の13歳の少女の壹與が王となり、国は治まった。
248年(正始7年)
邪馬壹國と狗奴国間の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政は、檄文をもって壹與を諭した。
その後
壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らは魏の都に上り、男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
266年(秦始2年)・・・・晋書
倭の女王の使者が朝貢した。
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人物比定 |
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比定できないとする説 |
台与を神話上の誰に比定するかという議論は、現在後述の理由により、学界では行われていない。
なぜなら、それらは同時代史料でも良質の編纂史料でもないし、そもそも継体天皇以前の記紀の記述に、あまり正確さが期待できないためである。
しかし敢えてその試みを行おうとすれば、以下の要件を満たす人物という事になる。
女王である。
祖母が女王的存在。
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2人のアマテラス説 |
卑弥呼没年前後の皆既日食によって岩戸隠れの故事を説明しようとする説。
日本神話の天の岩戸伝説の前後の天照大神は別の人物であり、それぞれ卑弥呼と台与であるとして、アマテラスを誰に比定するかという議論とともに考えようとするものがある。
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万幡豊秋津師比売説(ヨロヅハタ トヨアキツシヒメ) |
卑弥呼をアマテラスに比定する場合の説。
万幡豊秋津師比売は高御産巣日神(タカミムスビ)の娘。
アマテラスの息子アメノオシホミミと結婚し、アメノホアカリとニニギの母となった。
アマテラスの極めて近い親族で名前の中に「トヨ」の文字がある彼女を臺與に比定する説で、安本美典が『新版・卑弥呼の謎』(講談社現代新書)で述べている。
彼女はアマテラスが主祭神である伊勢神宮の内宮の相殿神の一人であり、安本はそれをこの説の根拠のひとつとしている。
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天豊姫命説 |
尾張氏、海部氏の祖彦火明、七世孫建諸隅命の子、天豊姫を臺與とする説。
この人の二世代前に卑弥呼と思われる、日女命がある。
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豊鍬入姫命説(とよすきいりびめのみこと) |
天皇の命で天照大神を祭った初代斎宮が臺與に相当するという説がある。
豊鍬入姫命とは、記紀に伝えられる古墳時代の皇族。
日本書紀』には豊鍬入姫命または豊耜入姫命、『古事記』では豊鉏入日売命。崇神天皇の皇女で、母は紀国造荒河戸畔(あらかわとべ)の娘、遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)。
同母兄に豊城入彦命が、異母兄弟に垂仁天皇、八坂入彦命らがいる。
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参考資料 |
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「邪馬台国」 (朝日新聞学芸部 1986)
「邪馬台国のすべてがわかる本」 (三笠書房 1994)
「風土記にいた卑弥呼」 (朝日文庫 1995 古田武彦)
Wikipedia 「卑弥呼」 「壹與」 |
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