古代伯耆国(米子周辺)および因幡国の有力氏族、有力人物 | ![]() |
奈良時代以前の米子周辺の豪族 奈良時代以前の米子の豪族に関する資料はあまり無いのが現状である。 そうかといって、この地方に有力な氏族が全く存在しなかったという訳ではなかったと思われる。 それを探るためには、後世の有力氏族も検索し、何らかの手がかりを得たいと考える。 参照:伯耆国の歴代国司 |
古墳時代 | ||||
因幡氏(いなばし) | ||||
因幡氏 因幡国の古代豪族、古くから同国一帯に勢力を有していた因幡国造一族の後裔に当る。 初めは国造を姓に名乗っていたが、宝亀年間(770-780年)に因幡国造姓が下賜され、平安時代に入ると因幡姓を名乗るようになった。 先代旧事本紀 巻十国造本紀 『国造本紀』によれば成務天皇の御世に彦坐王の子・彦多都彦命が初めて国造に任じられたというが、実際の因幡氏の祖先は大和政権の勢力が因幡に及ぶ以前から、この地を治めていた有力な在地首長の一族であったと考えられている。 因幡氏は高草郡と八上郡に本拠地を有していたとされ、大国主命の伝説に登場する八上姫はこの国造一族とされている。 このほかにも、『播磨国風土記』には仁徳天皇の御世に因幡国造阿良佐賀比売(あらさかひめ)を執政大臣(まえつぎみ)の服部弥蘇連(はとりのみそのむらじ)が娶ったという記述があり、出雲や大和との深い繋がりが考えられている。 また、後世に在庁官人を経て宇倍神社の神主となった伊福部氏はこの一族から分かれた支流であることが分っている |
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伯耆国造 | ||||
『先代旧事本紀』 巻十 国造本紀より 「波伯国造は、志賀高穴穂(成務天皇)朝御代に牟邪志(武蔵)国造と同祖の兄多毛比命の児の大八木足尼(おおやきのすくね)を国造に定め賜いき」 大八木足尼が波伯国の最初の国造と考えられている。 国造本紀では、13代成務期の任命とされているが確証はなし。 |
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伊福部氏 | ||||
伊福部氏 伊福部氏(伊福部臣)は因幡伊福部の部分的伴造で、物部氏の一族とされる。 伊福部臣の祖である武牟口命について、『因幡国伊福部臣古志』では物部氏の遠祖である伊香色雄命の子としている。 部民としての伊福部 伊福部がどのような品部であったのかは明らかではない。 栗田寛『新撰姓氏録考証』による、伊は単なる接頭辞であり伊福部は吹部の意味として、笛吹を掌る職業的品部とする説、太田亮『姓氏家系大辞典』による、景行天皇皇子の五百城入彦皇子の御名代部とする説などがある。 伊福部 都牟自(いふくべ/いおきべ の つむじ) 生年不詳 -658年(斉明4年) 詳細は「伊福部氏」へ |
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安曇氏 | ||||
安曇氏について 詳細は、「安曇氏」へ 西伯耆の安曇氏 |
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飛鳥時代 | ||||
伯耆連 | ||||
「八色の姓」が制定された前年、すなわち683年に、伯耆造という氏が連という姓を賜っている。 この伯耆造を、伯耆国造家の氏姓とする説もある。 |
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額田部 | ||||
額田部とは 後の推古天皇である額田部皇女を支えるための経済基盤であり、全国に設置された。 米子の額田部 米子市陰田第12号横穴墓から出土した7世紀前半の須恵器に「額」の文字があった。 従って米子平野にも額田部が設置されていた可能性が考えられる。 額田部は、国造の支配下に置かれながら、中央の額田部連に率いられ額田部皇女の宮に奉仕する関係にあった。 |
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日下部(苦左加部) | ||||
日下部とは 21代雄略天皇の妃の草香幡俊姫のために設置された名代の部。 |
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巨勢氏 | ||||
6世紀、大和に台頭していた巨勢氏に関係した豪族。 巨勢氏の部曲を会見郡巨勢郷辺りに置いていたものと考えられている。 |
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奈良時代 | ||||
山上億良 | ||||
山上億良とは 春日氏の一族で、粟田氏の支族とされるが、一部からは百済系帰化人説も出されている。 略歴 716年 伯耆守。 |
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高丘連河内 (鳥取県の歴史 p70-p71) | ||||
746年、伯耆国守に就任。 本姓を楽浪(さざなみ)河内といいい、百済からの渡来人であった。 伯耆国国分寺の造営に深く関わったとされている。 |
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大伴家持 | ||||
758年(天平宝字2年)に因幡守。 |
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平安時代 | ||||
小鴨氏(おがもし) | ||||
小鴨氏とは 平安時代から安土桃山時代にかけて伯耆国東部(東伯耆)で栄えた一族。 経歴 「小鴨家系図」によると天智天皇に号を賜った「小鴨主」を祖としており、伯耆国では最も歴史が長い一族である。 伯耆国久米郡小鴨郷が一族の出身地とされ、国府の在庁官人を務め、それをもとにして勢力の拡大を行っていた。 築城年は不明だが早い時期から岩倉城を居城にしていた。 |
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紀氏(きし) | ||||
伯耆国の紀氏とは | ||||
紀氏は元々中央の官人であったが伯耆守として赴任後、土着して在地領主となった。 紀氏は会見郡東部を本拠地に勢力を拡大、『大山寺縁起』によれば康治3年(1144年)の大山寺内の抗争に関与し、この頃には東伯耆の小鴨氏と並んで伯耆国を二分するまでの勢力となっていた。 |
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紀氏の一族 | ||||
1:紀忠道 正五位下 出雲守 2:紀致頼 従五位下 伯耆守 忠道の兄弟 3:紀成任 伯耆守 後任の藤原資頼の執政を朝廷に告訴。 4:紀成盛(きのなりもり、生没年不詳) ①活躍した時代 平安時代末期から鎌倉時代にかけて伯耆国西部(西伯耆)で勢力を誇っていた武士。 文献によっては「村尾海六(かいろく)」、「海六成盛」、「海陸業戍(かいろくなりもり)」、「村尾海六成盛」と記されている。 海六とは海氏の六郎という意味で、安曇氏との関係が伺える。 後年、息子と思われる人物に海六成国がいる。 ②事績-1 承安元年(1171年)7月の火災によって大山寺の宝殿等が焼失、独力での再建が難しい寺に代わって成盛が再建したと記されている。 ③事績-2 源平合戦 |
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藤原資頼(すけより) | ||||
藤原資頼 略歴 1021年 伯耆守就任。 |
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鎌倉時代 | ||||
南北朝-室町-安土桃山時代 | ||||
日野衆(ひのしゅう) | ||||
日野衆とは 室町時代から戦国時代にかけて伯耆国の日野郡一帯を支配していた国人衆のことをいう。 戦国時代ごろまでは日野衆の存続が確認されるが、永禄~元亀年間を境に衰退していったものと推察される |
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伯耆衆(ほうきしゅう) | ||||
伯耆衆とは 室町時代頃に伯耆守護の山名尚之被官層であった伯耆国人衆のことをいう。また、「伯州衆」ともいわれる。 |
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南条氏(なんじょうし) | ||||
南条氏とは 日本の氏族のひとつで伯耆国の国人、戦国大名の一族。 経歴 |
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進氏(しんし) | ||||
1:進氏とは 南北朝時代から室町時代にかけて伯耆国西部(西伯耆)に勢力を持っていた国人。 西伯耆を中心に勢力を誇っていた紀成盛を祖とする一族で、代々、会見郡から日野郡にかけて権益を持っていた。 当初は巨勢氏、相見氏ともいい、船上山合戦に馳せ参じた際、その戦功を称えられ後醍醐天皇より綸旨が与えられた。 この綸旨は現在でも実物が伝えられているが、これを与えられた巨勢氏・会見氏が進氏につながる一族であるのか不明な点も多い。 2:進氏の経歴 ①南北朝時代 進氏の記述については、進三郎入道長覚が領家職を押領しようとしたとの記録が最古である。(布美庄は現在の米子市付近に位置していた) 室町時代には山名氏のもとで伯耆衆の一員になり応仁の乱に参加、その功によって進美濃守は南条氏と共に伯耆守護代に任じられた。 このほか中央の文献には当時、伯耆国内で有力であった小鴨氏、南条氏、村上氏などと並んで進氏の名が記されており、西伯耆の有力者であったことがうかがい知れる。 ②戦国時代 進氏は戦国時代に入ると尼子氏など伯耆に侵出してきた中国地方の有力者のもとに属した。 なお、進氏の名は伯耆衆と呼ばれる山名尚之の被官衆には確認されない。 このことからも山名教之の代には守護代を務めたこともある進氏は明応年間に入ると山名氏から離れ自立する動きを見せていたことが明らかになっている。 その後の一族の動向は不明だが、天正年間からは東伯耆の南条氏家臣に進下総守が確認され、一部の者は他の有力者の家臣に組み込まれていったものと推察される。 |
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相見氏 | ||||
参考資料 | ||||
「新修 米子市史 第1巻」 |
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