紀氏について | ||||
概説 | ||||
概要 武内宿禰の子の紀角宿禰(木角)の一族。 宿禰の母・影媛(宇遅比女、武内角宿禰の祖母)が紀伊国造家の出であったことから母方の紀姓を息子に名乗らせたことによる。 氏姓 姓は臣(おみ)、後に朝臣 |
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系譜 | ||||
系譜 祖:武内宿禰 ↓ 1: 紀角(紀臣) ↓ 2: 紀白城 ↓ 3: 紀小弓 (征新羅大将軍) ↓ 4: 紀大磐 ↓ 5: 紀男麻呂 ↓ 6: 紀小足 ↓ 7: 紀塩手 ↓ 8: 紀大口 ↓ 9: 紀大人(紀朝臣)→→以後、紀氏末裔へ |
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事績 | ||||
応神期 紀角が臣姓を賜る。 雄略期 紀小弓 が征新羅大将軍となる。 天智期 671年(天智10年)に、大友皇子(弘文天皇)が太政大臣に、蘇我赤兄が左大臣に、中臣金が右大臣に、蘇我果安、巨勢人、紀大人が御史大夫に任命された。 天武期 壬申の乱の勃発時には紀大人が御史大夫として近江の朝廷の重臣であった。 しかし、乱後罰されなかった。 |
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紀氏の人物 | ||||
紀 小弓(きの おゆみ) | ||||
雄略天皇の命で、蘇我韓子、大伴談、小鹿火宿禰らと新羅を征伐するために朝鮮へ渡るが、残兵の抵抗に苦戦し、大伴談が戦死、彼も新羅で病死した。 |
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紀 大磐(きの おおいわ) | ||||
父が雄略天皇の命を受けての新羅との交戦中に、病死したと聞いて、百済に向うが、横暴な振る舞いによって小弓の後に大将として権力を握っていた小鹿火宿禰を怒らせてしまう。 小鹿火は、蘇我韓子を唆し、彼を暗殺しようとしたが、韓子は返り討ちにされ、小鹿火も、帰還の際、角国(今の山口県)に留まってしまうことになる。 このとき大磐も一時帰国していたが、再び朝鮮に渡り、高句麗と結んで朝鮮南部の王となろうとして、百済と兵力が尽きるまで戦い、帰国した。 |
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紀 大人(きの うし) | ||||
生年不明 - 683年(天武12) 姓(カバネ)は臣、後に朝臣。671年に御史大夫。 672年の壬申の乱のとき大友皇子(弘文天皇)側の重臣だったが、乱後罰されなかった。贈正三位。 壬申の乱の後、大人は罪人と扱われていなかったと考えられる。 「近江朝の御史大夫」を最後に公務から退いたとも推測される。 大人が処罰されなかった理由については、同族の紀阿閉麻呂の活躍に免じて許されたのではないかとしたり、大海人皇子に内通していたのではないかと疑ったりする説がある。 |
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参考資料 | ||||
「古代豪族系図集覧」 (東京堂出版 1993) ウキペディア 「紀氏」 |
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紀氏 | ![]() |
武内宿禰の五男、紀角宿禰(きのつねのすくね)を祖とする豪族。 (参照:皇室・有力氏族系図まとめ) |