巨勢氏 | ||||
概説 | ||||
本貫地 大和国高市郡巨勢郷を本拠地とした古代在地豪族。 氏姓 姓は臣(おみ)、後に巨勢徳陀の子、巨勢黒麿の代に朝臣。 |
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系譜 | ||||
系譜 祖:武内宿禰 ↓ 1: 巨勢小柄宿禰 ↓ 2: 巨勢乎利 ↓ 3: 巨勢河上 ↓ 4: 巨勢男人・・・大臣 ↓ 5: 巨勢胡人 ↓ 6: 巨勢徳陀・・・左大臣 ↓ 7: 巨勢黒麻呂・・・朝臣姓を賜る ↓ 8: 巨勢小邑治 ↓ 9: 巨勢堺麻呂→→→→→巨勢氏の末裔へ |
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事績 | ||||
継体期 巨勢男人が大臣となり紗手媛・香々有媛を安閑天皇に嫁がせる。 587年 (用明2年) 丁未の乱では巨勢臣比良夫が従軍し、物部大連守屋を滅ぼす。 649年 (大化5年) 巨勢徳陀は左大臣となる。 672年 壬申の乱の時、巨勢人・巨勢奈弖麻呂親子は近江方(天智天皇方)につき乱後流刑。 奈弖麻呂は後に大納言。 684年 (天武13年) 巨勢徳陀の子、巨勢黒麻呂が朝臣姓を賜る。 補足 丁未の乱(ていびのらん) 飛鳥時代に起きた内乱で、丁未の変、物部守屋の変ともいう。 仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が乱を起こして、滅ぼされた。 |
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巨勢氏の人物 | ||||
巨勢小柄 | ||||
概説 古事記では武内宿禰の次男。 しかし『三代実録』では五男、『群書類従』では七男など諸説あり。 岩屋山古墳(奈良県高市郡明日香村越)が小柄の伝承の墓とされている。 補足: 7世紀 三段築造の方形墳。横穴式石室を持つ。 石室内は研磨された花崗岩質片麻岩。 被葬者は巨勢小柄、吉備姫王、斉明天皇などの説があるが不明。 |
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巨勢徳多(こせの とくた) | ||||
概説 生年不詳--658年(斉明天皇4年)没 名前は「とくだ」とも読まれて、史料によっては徳太・徳陀・徳陀子・徳太古などの表記が存在する。 大化の改新後に左大臣となった。 生涯 舒明天皇の大葬では、大派皇子(敏達天皇の子)の名代として誄を読み上げる。 643年 巨勢氏は蘇我氏と親密な関係にあり、徳多も蘇我入鹿の側近としての山背大兄王征討時には軍の指揮を執っている。 645年(大化元)年 中大兄皇子によって入鹿が暗殺される(乙巳の変)と、直ちに皇子に降伏して蘇我氏討伐に参加し、復讐を図る蘇我氏遺臣らを説得して兵を引かせた。 その功労によって2年後の冠位十三階導入時に旧来の冠位十二階による小徳より小紫に転じた。 649年(大化5年) 阿倍内麻呂の死去後に空位となっていた左大臣に任じられて大紫に昇進する。 中大兄皇子と前任の左右両大臣は、晩年において路線対立があり前任の右大臣蘇我石川麻呂は謀反の疑いで自殺に追い込まれているが、徳多は右大臣大伴長徳とともに中大兄皇子・中臣鎌足との協調を図りながら政権を運営した。 651年(白雉2年) 新羅の使者が倭国(日本)訪れた際に、新羅が唐に臣従して制度も唐制に改めたと知って追い返すという事件が起きた。 その際に新羅と唐が結ぶことを危惧した徳多は先に新羅を攻めるように進言したが、採用されなかった。 だが、徳多の死後に倭国は白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗れる事になる。 658年(斉明天皇4年) 左大臣在任中に病没した。 |
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参考資料 | ||||
「古代豪族系図集覧」 (東京堂出版 1993) 「訓読日本三代実録」 (臨川書店 1986 武田 祐吉 訳) ウキペディア「巨勢氏」 |
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巨勢(こせ)氏) | ![]() |
武内宿禰の二男である巨勢小柄宿禰に始まる氏族。 巨勢臣、雀部(ささきべ)臣、軽部臣につながる。 (参照:皇室・有力氏族系図まとめ) |