蝦夷と蝦夷征討 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蝦夷とは | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蝦夷 古くは愛瀰詩と書き(神武東征記)、次に毛人と表され、ともに「えみし」と読んだ。 後に「えびす」とも呼ばれ、「えみし」からの転訛と言われる。 「えぞ」が使われ始めたのは11世紀もしくは12世紀である。 |
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蝦夷征討の理由 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1:政治的理由 中央集権国家(律令国家)を目指す日本は、東北に住む蝦夷を天皇に服属させることを国家目標していた。 2:経済的理由 749年に東北(陸奥国)から金鉱脈が見つかったという知らせが入る。 大仏造立のための金が採掘できる上に、経済を潤す土壌が東北にはあると考えられた。 さらに鉄資源に関しても、東北には大いにその可能性があった。 |
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蝦夷征討に関わる官庁・官位 |
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鎮守府 古代における蝦夷経営の軍政府。724年頃には存在していた。 奈良時代は多賀城におかれ 平安時代に胆沢城に移る。 国府級の軍政府で、西の大宰府に相当する。 多賀城時代には実務は国府と共通であったが、胆沢城に移ってから独立した政庁とな る。 平泉時代に名目化し鎌倉時代に廃止。 按察使(あぜち) 令外官の一つ。従四位下。 719年に新設された地方行政の監督官。 三~五か国の守の中から一人を選任して管内の治績調査や民情を視察させた。 使の下に典があり、特典として職田・仕丁を賜った。 平安前期より陸奥出羽按察使のみとなり、 公卿の兼官として次第に虚職となった。 陸奥守 陸奥国の国司。 鎮守府将軍 奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。 平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。 直接記した史料はないが、知られる限りでは大野東人がもっとも古く、彼が初代の鎮守将軍であったといわれている。 鎮守将軍は、陸奥守や陸奥按察使が兼ねることが多く政軍両権を併せ北方の鎮めにつく役職であったが、移転後は専任となり陸奥守よりやや格が下がることになった。 |
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蝦夷政策(征討)史 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蝦夷政策の概要 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 600年代 渟足柵設置に始まる多くの城柵の設置 700年代 対蝦夷政策・行動 (前半は比較的温和な対応。しかし光仁朝から変化する) 800年前後 38年戦争(774年~811年) 800年代前半 蝦夷移配 俘囚教愉政策 800年代後半 俘囚の乱 897年 俘囚の陸奥国帰還政策 |
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古墳時代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蝦夷についての最も古い言及 『日本書紀』(神武東征記)にあるが、伝説の域を出ないとする考えもある。 『宋書』倭国伝より 478年に倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中に以下の記述がある。 「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。 東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」 この記述から、この時代には既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。 日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされている。 これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている。 例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っているが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓である |
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第47代称徳天皇以前 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7世紀頃 蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されている 大化年間ころ 国際環境の緊張を背景とした蝦夷開拓が図られた。 647年(大化3年)に越国の北端とみられるの渟足柵設置を皮切りに現在の新潟県・宮城県以北に城柵が次々と建設された。 太平洋側では 654年(白雉5年)に陸奥国が設置された。 724年(神亀元年)には国府を名取郡の広瀬川と名取川に挟まれた地(郡山遺跡、現在の仙台市太白区)から宮城郡の松島丘陵南麓の多賀城に、直線距離で約13km北進移転している。 日本海側では 658年(斉明天皇4年)から660年にかけて蝦夷および粛慎を討った阿倍比羅夫の遠征があった。 その後、708年(和銅元年)には越後国に出羽郡が設置された。 709年、蝦夷が良民を害し、巨勢麻呂、佐伯石湯、紀諸人らが征討に出発。諸国の兵器を出羽国に送る。 その後も個別の衝突はあったものの蝦夷と朝廷との間には全面的な戦闘状態はなかった。 道嶋嶋足のように朝廷において出世する蝦夷もおり、総じて平和であったと推定されている。 712年(和銅5年)に出羽国に昇格し陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られた。 |
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38年戦争 (774年~811年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 第49代光仁天皇以降、蝦夷に対する敵視政策が始まっている。 光仁天皇以降、仏教の殺生禁止や天皇の権威強化を目的に、鷹の飼育や鷹狩の規制が行われた。 奥羽の蝦夷に対してもこれを及ぼそうとし、またそれを名目に国府の介入が行われて支配強化につながったことが蝦夷の反乱を誘発したとする指摘もある。 774年(宝亀5年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、811年(弘仁2年)まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討の時代となる。 一般的には4期に分けられる。 第1期 774年、蝦夷が桃生城を侵攻、将軍駿河麻呂、これを討つ。 蝦夷の蜂起は日本海側にも及び、当時出羽国管轄であった志波村の蝦夷も反逆、胆沢地方が蝦夷の拠点として意識され始めた。 後半は主に出羽において戦闘が継続したが、伊治呰麻呂らの協力もあり、778年(宝亀9年)までには反乱は一旦収束したと考えられている。 第2期 780年(宝亀11年)から781年(天応元年)まで。 伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)とも呼ばれる。 宝亀11年3月22日(780年5月1日)、呰麻呂は伊治城において紀広純らを殺害、俘囚軍は多賀城を襲撃し略奪放火をした。 正史の記録には以後の経過が記されていないが、出羽国雄勝平鹿2郡郡家の焼亡、由理柵の孤立、大室塞の奪取及び秋田城の一時放棄と関連づける見解もある。 藤原小黒麻呂が征東大使となり、翌781(天応元年)には乱は一旦終結に向かったと推察されている。 第3期 789年(延暦8年)に、前年征東大使となった紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始された。 紀古佐美は5月末まで衣川に軍を留め、進軍せずにいた。 桓武天皇からの叱責を受けたため蝦夷の拠点と目されていた胆沢に向けて軍勢を発したが、朝廷軍は多数の損害を出し壊走、紀古佐美の遠征は失敗に終わったという。(巣伏の戦い)。 794年(延暦13年)には、再度の征討軍として征夷大使大伴弟麻呂、征夷副使坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われた。 この戦役については「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」(『類聚国史』)と記録されているが、他の史料がないため詳細は不明である。 しかし、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人にすぎないにもかかわらず唯一史料に残っているため、中心的な役割を果たしたらしい。 801年( 延暦20年)には坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征し、夷賊(蝦夷)を討伏した。 このとき蝦夷の指導者阿弖流為は生存していたが、いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻っていることから、優勢な戦況を背景に停戦したものと見られている。 802年の報告として『日本紀略』には、大墓公阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が五百余人を率いて降伏したこと、田村麻呂が2人を助命し仲間を降伏させるよう提言したこと、群臣が反対し阿弖流為と母礼が河内国で処刑されたことが記録されている。 また、このとき閉伊村まで平定されたことが『日本後紀』に記されている。 第3期の蝦夷征討は、803(延暦22年)に志波城を築城したことで終了した。 第4期 811年(弘仁2年)の文室綿麻呂による幣伊村征討が行われ、和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置に至った。 爾薩体・幣伊2村を征したと『日本後紀』にあることから征討軍が本州北端に達したという説もある。 翌年には徳丹城が建造され、9世紀半ばまでは使用されていたが、このとき建郡された3郡については後に放棄されている。 |
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蝦夷政策(征討)史年表 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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蝦夷政策に関係の深い人物 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
阿倍比羅夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。 658年(斉明天皇4年)から3年間をかけて日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。 生涯 658年(斉明天皇4年) 蝦夷に遠征する。 降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。 659年(斉明天皇5年) 蝦夷国を討つ。 阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。 後方羊蹄に郡領を置く。 粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。 660年(斉明天皇6年) 粛慎を討つ。 大河(石狩川、あるいは後志利別川と考えられる)のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。 粛慎を幣賄弁島(へろべのしま。樺太説、奥尻島説がある)まで追って彼らと戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。 662年(白村江の戦い) 中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かったが、翌663年新羅と唐の連合軍に大敗した。 |
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大野東人(おおの あずまびと) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 生誕不明~742年没。 糺職大夫・大野果安の子。姓は君のち朝臣。官位は従三位・参議。 多賀城を設置に貢献。 生涯 720年(養老4年) 蝦夷の反乱(征夷将軍・多治比縣守により鎮圧)後、まもなく蝦夷開拓の本拠として多賀柵を築く。 724年 持節大将軍・藤原宇合以下の遠征軍の副将軍として派遣された。 733年(天平5年) そのごも蝦夷の開拓を進め、それまで最上川河口付近(現在の庄内地方)にあった出羽柵を雄物川河口付近(現在の秋田市付近)に移している。 737年 陸奥按察使兼鎮守将軍。 兵部卿・藤原麻呂が持節大使に任じられ、東人は精鋭の騎兵196騎、鎮兵499人、陸奥国兵5000人、帰順した夷狄249人を率いて色麻柵(現在の宮城県加美郡加美町城生か)から遠征に出発。 奥羽山脈を横断し、男勝村の蝦夷を帰順させて奥羽連絡通路を開通した。 東人は多賀柵に戻り、連絡通路開通について大使・藤原麻呂に報告を行っている |
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藤原継縄 (ふじわら つぐただ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 727年生誕~796年没。 藤原南家の祖である左大臣・藤原武智麻呂の孫。右大臣・藤原豊成の次男。官位は正二位・右大臣、贈従一位。 生涯 780年 陸奥国で蝦夷の族長であった伊治呰麻呂が反乱を起こし、按察使・紀広純を殺害したため(宝亀の乱)、これを鎮圧すべく継縄は征東大使に任ぜられた。 しかし継縄は準備不足などを理由にして平城京から出発しようとせず、遂に大使を罷免されてしまった(後任大使は藤原小黒麻呂)。 ただし特に叱責を受けたり左遷されるなどの処分は受けていない。 |
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百済王 俊哲(くだらのこにきし しゅんてつ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 740頃生誕-795年没。 右京大夫・百済王理伯の子。官位は従四位下・陸奥鎮守将軍。勲等は勲三等。 生涯 775年(宝亀6年) 鎮守将軍・大伴駿河麻呂らに従って、陸奥国で叛乱を起こし桃生城に侵攻した夷俘を鎮圧・服従させた。 俊哲は勲六等の叙勲を受ける(この時の位階は従六位下)。 780年(宝亀11年) 3月に発生した宝亀の乱と前後して従五位下、次いで4月に従五位上と続けて昇進し、同年6月には反乱鎮圧のために鎮守将軍・藤原小黒麻呂の配下として陸奥鎮守副将軍に任ぜられる。 787年(延暦6年) 何らかの事件に連座し日向権介に左遷されるが、790年(延暦9年)赦免され入京を許される。 免罪の理由として、その武官としての才が惜しまれたため、または百済王氏を外戚とする詔が出されたことによる同氏への待遇の上昇のためであるとの説がある。 791年(延暦10年) 蝦夷征討を目的に坂上田村麻呂と共に東海道に派遣されて兵士の検閲と武具の検査を実施、まもなく下野守に任ぜられ、さらに同年中に征夷副使・陸奥鎮守将軍を兼ねた。 補足:百済王氏 百済最後の王である義慈王の子である善光を始祖とする日本の氏族。 持統朝に百済王の氏姓を賜与された。 |
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伊治呰麻呂 (これはり/これはる の あざまろ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 奈良時代の東北地方で活動した蝦夷の指導者。姓は公。官位は外従五位下・上治郡大領。 780年(宝亀11年)に伊治城で宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)を起こした。 生涯 778年(宝亀9年) 伊治呰麻呂は夷俘の出身であったが、国府に仕えて上治郡(伊治郡か)の大領となり、出羽国の管轄にあった志波村の蝦夷征討に功を挙げ、ヤマト王権より外従五位下に叙せられた。 陸奥国按察使の紀広純は初め呰麻呂を嫌ったが、のちには大いに信頼を寄せるようになった。 しかし、同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は、(卑しい)夷俘の出であるとして呰麻呂を見下し侮ったため、呰麻呂は内心深く恨んでいたという。 780年(宝亀11年) 新たな城柵として覚鱉城(かくべつじょう)が築かれる際、既成の城柵である伊治城を紀広純が訪れたが、この機会を捉えて呰麻呂は俘囚の軍を動かして反乱を起こし、まずは大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺害した。宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱) 陸奥介の大伴真綱だけが囲みを破って多賀城に逃れた。 城下の住民は多賀城の中に入って城を守ろうとしたものの、真綱が陸奥掾の石川浄足とともに後門から隠れて逃げたため、住民もやむなく散り散りになった。 数日後、蝦夷軍は城に入って略奪行為を働き、焼き払って去った。 呰麻呂の行動記録は、この伊治城における反乱の後、途絶する。 ただちに中央政府は中納言・藤原継縄、次いで参議・藤原小黒麻呂を征東大使に任命して征討軍を出動させたが、なんら成果は得られず、戦闘は拡大した。 この後の呰麻呂の動静については、史料に記載無く不明である。 もし、呰麻呂が中央政府軍に敗れて殺されるようなことがあれば『続日本紀』が記したであろうことから、記録の欠落は呰麻呂がそうした最期を迎えなかったことを示唆する。 なお、反乱の結果、伊治城とその周辺地域は中央政府による蝦夷経営の支配を何年かの間は逃れたものの、やがては再び制圧された。 |
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紀古佐美(きの こさみ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 733年生誕-797年没 正三位・大納言、贈従二位。勲等は勲四等。 生涯 788年(延暦7年) 7月に征東大将軍に任じられ、12月に節刀を受けて蝦夷の征討に赴く。 789年(延暦8年) 3月末に衣川(現在の岩手県西磐井郡平泉町付近)に陣を敷くが、1ヶ月以上に亘り軍を動かさなかった。 このことから、5月中旬に桓武天皇の叱責を受ける。 これを受けて古佐美は5月末に大規模な渡河を伴う軍事行動を起こすが、蝦夷の族長であるアテルイの反撃に遭い、別将の丈部善理ら戦死25人、溺死1036人もの損害を出して大敗した(巣伏の戦い)。 |
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大墓公阿弖流為(アテルイ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。 紀古佐美率いる朝廷軍を巣伏の戦いで撃退したが、続く大伴弟麻呂、そして坂上田村麻呂率いる朝廷軍にたて続けて敗北。 のち自ら降伏し、田村麻呂も助命を嘆願するが、京の公卿達の反対により河内国で処刑された。 詳細は、「アテルイ」へ |
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坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。 官位は、大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 詳細は、「坂上田村麻呂」へ |
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藤原 緒嗣(ふじわら おつぐ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 774年生誕~843年没。 藤原式家、参議・藤原百川の長男。官位は正二位・左大臣、贈従一位。 蝦夷征討と平安京造営の中止を奏上。 生涯 徳政論争 805年(延暦24年)、緒嗣と同僚の参議・菅野真道は桓武天皇より現在の政治の問題点について質問を受けた。 緒嗣は開口一番 「方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。此の両事を停むれば百姓安んぜん(今、天下の人々が苦しんでいるのは、蝦夷平定と平安京の建設です。 この二つを止めればみんな安心します)」と述べた。 長年天皇に仕え、身分の低い学者から抜擢を受けた老齢の真道は天皇の意向を汲んで必死に反論をしたものの、ついに天皇は緒嗣の主張を受け入れてライフワークとも呼ぶべき事業である、蝦夷平定と平安京の建設の中止を宣言した。 なお、桓武天皇は翌年に崩御した。 |
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文室 綿麻呂(ふんや わたまろ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 765年生誕~823年没。 備前守・三諸大原の長男。官位は従三位・中納言、勲四等 生涯 延暦20年(801年) 坂上田村麻呂らと共に蝦夷征討のために東北地方へ派遣された。 810年 薬子の変後、大蔵卿・陸奥出羽按察使を兼ね、東北地方に駐在して蝦夷征討の責任者を務める。 811年 征討によって蝦夷を制圧し、辺境の防衛体制を解除させた功労により、従三位に叙せられ、勲五等の叙勲を受けている。 |
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蝦夷政策に関する諸説 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天智系と天武系での蝦夷政策の温度差について 700年代の対蝦夷政策・行動において、前半は比較的温和な対応。 しかし光仁朝から強攻策へと変化する。 光仁朝はいわゆる天智天皇の血筋となる。 蝦夷政策にこのことが関係しているのか、それとも偶然なのかは不明。 東北と出雲の関係 大和朝廷は出雲に国譲りをさせたとされるが、これは征服戦争があったとも考えられる。 出雲と東北との関係は言葉や風俗でも取り沙汰されている。 蝦夷征討はその延長なのか否かは不明。 |
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初載2018-12-3 |
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参考資料 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『蝦夷―古代東北人の歴史』 高橋崇 中央公論新社、中公新書、1986年 「東北学/忘れられた東北」 赤坂憲雄、講談社学術文庫 「東北ルネサンス」 赤坂憲雄、小学館文庫 「日本史リブレット 蝦夷の地と古代国家」 熊谷公男、山川出版社 「ジュニア版古代東北史」 新野直吉、文献出版 「アジア太平洋レビュー2011 アテルイ復権の軌跡とエミシ意識の覚醒」 岡本雅享 「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」 梅原猛、集英社文庫 「蝦夷-東北の源流」 河北新報社編集局 「マンガで読む房住山昔物語」 立松昴治、岩城紘一 「日本人のくらしと文化」 宮本常一、河出文庫 「古代豪族系図集覧」 東京堂出版 1993 「2014青森ねぶ祭」 青森ねぶた祭実行委員会発行 ウキペディア 「蝦夷」 |
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