伯耆国風土記 | ||||
概要 | ||||
伯耆国の風土記も存在したはずだが、現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみである。 |
||||
伯耆国風土記逸文 | ||||
粟嶋 (釋日本紀 卷七) 伯耆の國の風土記に曰はく、相見の郡。 郡家の西北のかたに餘戸(あまりべ)の里あり。 粟嶋あり。 少日子命、粟を蒔きたまひしに、莠實(みの)りて離々(ほた)りき。 即ち、粟に載りて、常世の國に彈かれ渡りましき。 故、粟嶋と云ふ。 震動之時 (塵袋 第三) 伯耆の國の風土記に云はく、震動(なゐふ)る時、鶏(かけ)と雉(きぎし)とは悚懼(お)ぢて則ち鳴き、山鶏は嶺谷(をたに)を踰(ふ)みて即ち羽を樹(た)てて蹬(ふ)み踊る、と云へり。 伯耆國號 (諸國名義考) 或書に引る風土記には、手摩乳(てなづち)、足摩乳(あしなづち)が娘、稻田姫、八頭(やまた)の蛇(をろち)の呑まむとする故に、山中に遁(に)げ入りき。 時に、母遲く來ければ、姫、「母來ませ、母來ませ」と曰ひき。 故、母來の國と號(なづ)く。後に改めて伯耆の國と為す。云々。 ファンタ爺の独り言 ![]() 八岐大蛇退治の舞台は出雲の国であったはずだが、何故に稲田姫が逃げこんだその地が母来の国(伯耆国)なのか。 あくまでも舞台は出雲国で、逃げた先が伯耆国か、あるいは舞台そのものが・・・。 叉、上代特殊仮名遣いでは、上古には母をpapaと発音したとも言われておる。 それからすれば、パパキ国にならんといかんが、問題は何故に稲田姫と母来国を結びつけたと言うところにある。 謎は深い・・・。 |
||||
補足 | ||||
諸國名義考 著者 斎藤彦麿(1708-1854) 他 編年 文化6 (1809) 諸国の名義を古書より考証し、類と例をあげ解釈説明をしたもの。 |
||||
伯耆民諺記(ほうきみんげんき) | ||||
概要 | ||||
江戸時代中期に記された史書。全20巻 |
||||
著者 | ||||
寛保2年(1742年)、伯耆国倉吉詰の鳥取藩士といわれる松岡布政(まつおかのぶまさ、?-寛延3年(1750年))によって著された。 |
||||
内容 | ||||
伯耆国の様々な伝承や、寺社、古城砦の合戦記を記す。 伯耆国のまとまった史書としては唯一のものであり、当地域の歴史研究において欠くことのできない資料である。 当時まで伝わっていた伝承を忠実に伝え、特に合戦の描写に筆力がある。 伯耆国唯一の史書ではあるが、記述は東伯耆(鳥取県中部)関連のものに偏っている傾向がある。 |
||||
補足 | ||||
近年まで鳥取県における中世史研究はこの『伯耆民諺記』などの記述を中心に行われてきた。 しかし、史料批判的な観点から見ると民諺記は史料というよりも論考といった方が適切であり、近年では以前見られた記述を鵜呑みにした研究を見直す動きが活発になってきている。 |
||||
伯耆民談記 | ||||
概要 | ||||
鵜殿氏によって著された『伯耆民談記』は、『伯耆民諺記』が改題再編されたものと考えられる。 これは『因幡民談記』に対しての改題であり、更に何人かの加除改稿によって『民諺記』の元の形が失われた。 |
||||
伯耆誌 | ||||
「民諺記」以外の伯耆国関連の史書としては幕末に編纂されたが、明治維新の混乱期に散逸したために現存しているのは一部である。 伯耆民諺記には出典史料が不明な部分が多数を占めるなどしている。 しかし、その反省であろうか『伯耆志』には史料編が付け加えられている。 |
||||
参考資料 | ||||
「因伯叢書第4巻 伯耆誌」 (名著出版社 1972) |
||||
|
伯耆国関連の古文献 | ![]() |
伯耆国:「山陰道の旧国1(伯耆国・因幡国)」へ |