中国の文献 | ||||
山海経 (成立=秦・前漢期) | ||||
第十二 海内北經 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」 蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。 山海経の編纂された時代には、倭は燕に朝貢していたと考えられていた事がわかる。 |
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漢書 (成立=AD50-90年頃) | ||||
地理志 「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」 楽浪海中に倭人あり、 分かれて百余国をなし、 歳時をもって来たりて献見すと云う。 |
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論衡 (成立=AD50-90年頃) | ||||
異虚篇第18 |
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三国志 (成立=AD280年頃) | ||||
魏志倭人伝 (三国志 魏書 東夷伝 倭人条) (成立=AD280年頃) 魏書 巻30 「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」 「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」 倭人は帯方郡の東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。 もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。 いまは使者や通訳が往来するのは三十国。 詳細は魏志倭人伝へ |
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後漢書 (成立=432年) | ||||
東夷傳 「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」 建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。 使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」 安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う 卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十の檀石槐伝 「光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」 鮮卑は連戦連勝をしながらも食料難に陥ってしまったという。そこで檀石槐は肥沃な土地を求めて秦水方面に移動した。秦水は四方の河に分かれ、中に魚がいるものの鮮卑には魚を捕獲する技術が皆無だったために、不可能だった。檀石槐は一案を出して、現地にいた倭人(または汙人)を奴隷として、魚を捕獲させ、食料難を解決したという。秦水が現在のどの辺りかは確認はできないが、おそらく現在の北朝鮮に当たる地域だったと思われる。 |
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晋書 (成立=AD648年以降) | ||||
太康10年(289年)の条 「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」 |
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隋書 (成立=AD656年) | ||||
「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」 |
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旧唐書 (成立=945年) | ||||
『旧唐書』では倭と日本の区別がよくわからない状態で書かれている。 「日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地」 日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。 或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、と。 倭国は「自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み」名を改めたと読める。 また、北宋時代に再編纂された『新唐書』においても同様の記述がある。 新唐書においては「日本という小国を倭があわし(合併し)その号(日本の名)を冒す(名のる)」とする記述がある。 |
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新唐書 (1060年) | ||||
『旧唐書』では倭と日本の区別がよくわからない状態で書かれているが、『新唐書』では日本伝としてまとめられている。 『新唐書』東夷伝日本伝 『隋書』卷81 列傳第46 東夷にある俀王「姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」は、『新唐書』東夷伝日本伝に「用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」とあり用明天皇が多利思比孤であると記述している。 |
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朝鮮の文献 | ||||
広開土王碑文 | ||||
詳細は、広開土王碑文へ |
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三国史記 (成立=1145年) | ||||
百済本紀 | ||||
397年 夏五月 王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。 402年 五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。 403年 春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。 405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。 倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。 418年 夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。 428年 倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。 608年 隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した。 653年 秋八月、王は倭国と修交した。 662年 七月 扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。 唐新羅連合軍は救援の倭軍の軍船400艘を白江に焼く。 百済軍と倭軍は唐に降伏し、扶餘豊は行方不明となる。 |
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新羅本紀 | ||||
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとした。 しかし、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった 紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。 馬韓王が瓠公に「辰・卞二韓は、わが属国であったのが、近年には貢物も送らない。 大国につかえる礼が、これでいいのか」といった。 これに対して瓠公は「わが国は二聖が国をたててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人にいたるまで恐れ、かつ、したわないものはありません。 しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼というべきであります。 それなのに、大王はかえって怒り、兵を似ておどかすのは、これ何の意味でありますか」といった。 馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。 これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。この時にかれらの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。 瓠公という人は、その族姓がつまびらかではないが、元は倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。 14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。 57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」 脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。 59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。 73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。 121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。 123年 春三年に倭国と講和した。 158年 倭人が交際のために訪れた。 173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」) 232年 夏四月に倭人が金城を包囲。 233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。 249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。 287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。 289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。 292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。 294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。 670年 卷第六/新羅本紀第六/文武王 「十年十二月 倭國更號日本 自言近日所出以爲名」 文武王10年は670年。「倭国は、更(カ)えて日本と号す。自ら言うに、日出ずる所に近し、以て名とする」 倭国が日本と国号を替えたとある |
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三国遺事 | ||||
390年 第十七代、那密王即位三十六年に、倭王の使者が来朝して「わが王が大王の神聖であられることを聞いて、臣に百済の罪を大王にあげるようにといわれました。 願わくば大王の王子お一人をつかわせて、わが君に誠意を御示しくださいませんか」と言った。 そこで王は三男の美海を送った。美海の年は十歳で、言葉や動作も未熟であったので、内臣の朴娑覧を福使として付き添わせた。 倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった。 |
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参考資料 | ||||
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