魏志倭人伝 編纂経過 |
|
魏志倭人伝とは
中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称であり、日本において一般に知られる通称。
正式な名前は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」である。
3世紀末(280年-290年間)に書かれた
全文で、約2000(1988あるいは2008)文字からなっている。
著者陳寿の死後、正史の扱いを受ける。
三国志(さんごくし)
中国の西晋代の人陳寿(233年-297年)により西暦280年~290年頃に編纂された紀伝体の歴史書。
後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの三国時代についてほぼ同時代の人物によって書かれた重要な史料。
個人の撰ではあるが、三国時代の歴史を扱う歴史書としては唯一、二十四史の一つに数えられた。
著者=陳寿(ちんじゅ、233年 - 297年)
蜀漢・西晋の官僚。
初め蜀漢に仕えるも、黄皓に逆らって左遷された。
やがてかつての同僚の羅憲によって推挙され、西晋に仕えた。
皇帝の司馬炎にその才能を買われて、益州の地方史『益部耆旧伝』・『益部耆旧雑記』や蜀漢の丞相だった諸葛亮の文書集である『諸葛亮集』を編纂した。
この他、やはり高く評価されたという『古国志』を著した。
これらの実績を踏まえ、『三国志』を編纂した。
|
魏志倭人伝 概要 |
魏志倭人伝の構成 |
|
倭人伝は、大きく分けて3段落から構成されている。
1:倭国の様子と邪馬台国までの行程
①邪馬台国までの国と行程
②その他の国
2:倭人社会の風俗、生活、制度など
3:倭と魏の関係
①卑弥呼と台与
②魏、晋との外交
|
1:倭国の様子と邪馬台国までの行程 |
|
①邪馬台国までの国と行程
帯方郡から倭国に至るには水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する。
始めて海を1000余里渡ると対馬国(つまこく)に至る。
大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。
絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。
山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。
船で南北岸の市へいく。
また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。
官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。
3000の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく。
また海を1000余里渡ると末盧国(まつろこく)に至る。
4000余戸が有る。
草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
東南へ500里陸行すると伊都国(いとこく)に到着する。
長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。
1000余戸が有る。丗、王が居る。皆は女王国に属する。
帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
東南に100里進むと奴国(なこく)に至る。
長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離。2万余戸が有る。
東へ100里行くと不弥国(ふみこく)に至る。
長官は多模(たも)、副官は卑奴母離。
1000余の家族が有る。
南へ水行20日で投馬国(とうまこく)に至る。
長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。
推計5万戸余。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳鞮があり、推計7万余戸。
②その他の国
女王国より北方にある、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壱国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、
好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、女王国はこれら20数カ国を支配していた。
日本列島の全てを支配した訳ではなく領域外の国々もあり、特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。
女王国の北方の諸国には「一大率(或るいは一支率)」という官が置かれて国々を監視している。
一大率は伊都国にあり、魏の刺史のような役目を果たしている。
伊都国は外交の中心地で魏や韓の国々の使節はここに停泊して文書や贈物の点検を受けて女王に送っている。
租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられている。
国々には市場が開かれ、大倭という官がこれを監督している。
帯方郡から女王国に至るには、1万2000余里ある。
|
2:倭人社会の風俗、生活、制度など |
|
「皆面黥面文身」というように男子はみな墨や朱や丹を顔や体に入れたり塗ったりしている。
古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。
男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
着物は幅広い布を結び合わせているだけである。
兵器は矛・盾・木弓を用いる。
土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。
他の人々は飲酒して歌舞する。
埋葬が終わると水に入って体を清める。
倭の者が船で海を渡る時は持衰(じさい)が選ばれる。
持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。
船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。
船に災難があれば殺される。
特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。
長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
女は慎み深く嫉妬しない。
盗みはなく、訴訟も少ない。
法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。
|
3:倭と魏の関係 |
|
①卑弥呼と台与
元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。
そこで、卑弥呼と言う一人の少女を女王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。
卑弥呼は鬼道を祭祀して人心を惑わし、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。
卑弥呼は1000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、めぐらされた城や柵、多数の兵士に守られていた。
王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。
卑弥呼は景初3年(239年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。
正始8年(248年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。
正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。
その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。
そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女の台与が王に立てられ国は治まった。
先に倭国に派遣された張政は檄文をもって台与を諭しており、台与もまた魏に使者を送っている。
②魏、晋との外交
景初3年6月(239年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た。
帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。
12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。
正始元年(240年)に帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣し、倭王の位を仮授して下賜品を与えた。
正始4年(243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。
皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。
正始6年(245年)、皇帝(斉王)は詔して、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
正始8年(247年)、女王は太守王(斤+頁)に載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告。
太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
女王位についた台与は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
|
魏志倭人伝 原文 全訳
|
現存する数種の版本のうち、「百衲本」が最も善本とされるが、現在の中国では諸本を校訂した「中華書局本」が多く通行しており日本語訳もこれを底本としている。
|
1:倭国の様子と邪馬台国までの行程 |
|
倭人在帯方東南大海之中 依山爲國邑舊百餘國漢時有朝見者 今使早譯所通三十國 |
倭人は、帯方郡の東南の大海の中にいる。
山の多い島で、国や村で成り立っていて、もとは百余りの国があって漢の時代には朝貢する者もいたが、今は使者や通訳など通ってくるのは、30カ国である。
|
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸 狗邪韓國七千餘里 |
帯方郡より倭国へ行くには、半島の西海岸に沿って航行し、南や東に蛇行しながら進むと先端の狗邪韓国(くやかんこく)に着く。
帯方郡から狗邪韓国までの距離は七千里(約630㎞:1里=90mで算定)余りである。
|
始度一海千餘里至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴 |
そこではじめて海を渡り、千余里で「対馬国」に至る。
その大官は「卑狗」といい、副は「卑奴母離」という。住んでいるところは四方四百里あまりの広さの孤島である。
その土地は山が険しく、深い林が多く、道路はけもの道のごとくである。千余戸がある。
良い田が無く、海産物を食べて自活し、船に乗って南北と交易している。
|
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴 |
つぎに南に千里あまり、「瀚海」という名の海を渡り、「壱岐国」に到着する。
ここの官もまた「卑狗」といい、副は「卑奴母離」という。四方三百里ほどである。
竹や木の叢林が多い。三千ばかりの家がある。
田地は少々あるが、田を耕すだけでは食料が不足するので、南北と交易している。
|
又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之 |
また海を千余里渡って、「末盧国」に到着する。
四千戸あまりある。
人々は浜と山海に暮らしている。草木が繁っていて、道を歩くと前が見えない。
人々は魚やあわびを捕えることを好み、水の深浅は関係なしに潜ってそれらを取っている。
|
東南陸行五百里到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐 |
東南に陸を五百里いくと、「伊都国」に到着する。
官は「爾支」といい、副を「泄謨觚」「柄渠觚」という。
千戸あまりである。
代々国王がいて、みな女王国に統属している。
ここは帯方郡の使者が往来する時には、常に駐まるところである。
|
東南至奴國百里官曰?馬觚副曰卑奴毋離有二萬餘戸 |
東南にいくと「奴国」まで百里である。
官は「?馬觚」といい、副は「卑奴毋離」という。二万余戸である。
|
東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴毋離有千餘家 |
東にいくと「不彌國」まで百里である。
官を「多模」といい、副は「卑奴毋離」という。千余戸である。
|
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸 |
南へ水行二十日で「投馬国」に至る。
官は「彌彌」、副は「彌彌那利」という。五万余戸である。
|
南至邪馬壹國女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳?可七萬餘戸 |
南にいくと「邪馬台国」に至る。女王の都するところだ。
水行十日と陸行一月である。
官に「伊支馬」がある。次は「弥馬升」、次は「弥馬獲支」、次は「奴佳?」という。七万余戸だろう。
|
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 |
女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できるが、その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない。
|
次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡 |
つぎは「斯馬国」、そのつぎ「己百支国」、つぎに「伊邪国」、つぎに「都支国」、つぎに「弥奴国」、つぎに「好古都国」、つぎに「不呼国」、つぎに「姐奴国」、つぎに「対蘇国」、つぎに「蘇奴国」、つぎに「呼邑国」、つぎに「華奴蘇奴国」、つぎに「鬼国」、つぎに「為吾国」、つぎに「鬼奴国」、つぎに「邪馬国」、つぎに「躬臣国」、つぎに「巴利国」、つぎに「支惟国」、つぎに「,烏好国」、つぎに「奴国」がある。
ここが女王の境界が尽きるところである。
|
其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里 |
その南には「狗奴国」がある。男子を王としており、官には「狗古智卑狗」がある。
この国は女王に従属していない。
帯方郡から女王国までの距離は一万二千余里である。
|
2:倭人社会の風俗、生活、制度など |
|
男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害 今倭水人好沈没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差 |
男子は大人、子供の別なく、みな顔面と身体にいれずみをしている。
古くから、中国を訪問する使節は、皆自分から大夫と称している。
夏王朝の少康の子が会稽に封ぜられた時、断髪し、身体にいれずみをして蛟龍の害をさけた。
いま倭の水人は、好んで水中にもぐって魚や蛤を捕る。
彼らがいれずみをしているのは、大魚や水鳥を避けるためである。
時がたつにつれて次第に飾りとなって、諸国のいれずみは左右や大小にいろいろなバリエーションがあり、尊卑によっても違いがある。
|
計其道里當在會稽東治之東 其風俗不淫男子皆露{糸介}以木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髮屈{糸介}作衣如單被穿其中央貫頭衣之 |
その道順と距離を計算してみると、ちょうど会稽の東冶の東にある。
その風俗は淫らでない。男子はみな髪を露出し、木綿を頭に巻いている。
衣服は横広の布を、ほとんど縫わないままつなげて、ひもで結び束ねている。
婦人は束ねた髪をまとめて、単衣の中央から頭を出して着ている。
|
種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵?緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或骨鏃 |
稲や貯麻を植え、桑で蚕を飼って紡績をおこない、麻糸・きぬ・綿を産出する。
その土地には牛・馬・虎・豹・羊・鵠はいない。
兵器は矛・楯・木弓を使用する。木弓は下部が短く、上部が長い。竹のやじりには鉄鏃あるいは骨鏃を用いる。
|
所有無與擔耳朱崖同 倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟臥息異處 |
産物の有無は、擔耳や朱崖と同じである。
倭の土地は温暖である。
冬でも夏でも生野菜を食べる。
皆はだしである。
家屋には部屋がある。
父・母・兄・弟らは、別の場所で就寝休息する。
|
以朱丹塗其身體如中國用粉也 食飲用邊豆手食 |
中国で白粉を用いるように、朱や丹を身体に塗る。
飲食は高杯をつかって手づかみで食べる。
|
其死有棺無槨封土作冢 始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒巳葬擧家詣水中澡浴以如練沐 |
その葬儀には、「棺」はあるが、「槨」はない。盛り土をして「冢」をつくる。
人が死ぬと、はじめ十余日間ほど喪に服する。この期間は肉食をしない。喪主は哭泣し、他の人々は歌舞飲食する。葬儀がおわると、一家は中国の「練沐」のように、水浴する。
|
其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去?蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰 若行者吉善共顧其生口財物 若有疾病遭暴害便欲殺之 謂其持衰不謹 |
中国往還の渡海の際には、つねに一人の人物を頭髪を梳かせないで、しらみをとらず、衣服を垢で汚れたままにし、肉を食べず、婦人を近づけないで、喪に服している人のようにする。これを「持衰」という。
もし、航海が無事なら、人々は彼に「生口」や財物を与える。
しかし、病人が出たり、暴風雨の被害に遭った時には、これを殺そうとする。
持衰が禁忌を守らなかったせいだという。
|
出真珠青玉其山有丹其木有{木冉}杼豫樟?櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉 |
真珠、青玉を産出する。山には「丹」を産出する。樹木には、くす、とち、くすのき、ぼけ、くぬぎ、すぎ、かし、やまぐわ、楓などがあり、竹類には、ささ、やたけ、かづらだけなどがある。
生姜、橘、山椒、茗荷もあるが、滋味ある食物として利用することを知らない。猿や黒雉もいる。
|
其俗擧事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火{土斥}占兆 |
習俗では、行事とか、旅行とか、事があるごとに、骨を灼いて吉凶を占う。まず占うことを告げる。そのト兆の解釈は中国の亀トの法に似ている。
焼けてできた裂け目を見て、その予兆を占う。
|
其會同坐起父子男女無別 人性嗜酒 |
集会や振る舞いにおいては父子、男女の区別はない。
人々は生来酒を好む。
|
〔魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀〕 見大人所敬但搏手以當跪拜 |
「魏略」によれば、一般の習俗では「正歳四節」を知らず、ただ、春秋の農作業をもって年をかぞえる。
身分の高い人を見ると、拍手をするだけで、中国の「跪拝」の代わりとする。
|
其人壽考或百年或八九十年 其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦 |
その寿命はある人は百年、ある人は八、九十年の長寿であると考えられる。
その習俗では、身分の高い人は皆四、五人の妻を持ち、身分の低い者でも、ある者は二、三人の妻を持っている。
|
婦人不淫不妬忌 不盜竊少諍訟 其犯法輕者没其妻子重者滅其門戸及宗族 |
婦人は淫らでなく、嫉妬をしない。
泥棒はいない。訴訟は少ない。
法を犯した者は、罪の軽い場合はその妻子を取り上げ、重い場合は家族と一族を殺す。
|
尊卑各有差序足相臣 服收租賦有邸閣 國國有市交易有無使大倭監之 |
尊卑には身分の差があって、上下の秩序が守られている。
人々に租税賦役を納めさせており、建物がある。
国々には市場があって、人々は物資を交換している。大倭にこれを監督させている。
|
自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史 |
女王国の北には、特に「一大率」を設置し、諸国を検察させ、国々は畏れ憚っている。常に伊都国に置かれており、中国の「刺史」のようである。
|
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯 |
王が使節を、洛陽や帯方郡または諸韓国に派遣する場合や、帯方郡の使節が来た場合は、それらの使節は港で文書や賜物をあらため、女王への錯綜が起らないようにする。
|
下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬 對應聲曰噫比如然諾 |
身分の低い者が高い者と道で遭遇した場合は、あとずさりして草むらに入る。言葉を伝えたり、物事を説明する際には、うずくまったり、ひざまずいて、両手を地につける。これは恭敬作法である。
応答の声を「噫」という。承諾の意味のようだ。
|
3:倭と魏の関係 |
|
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 |
その国は、もとは男子が王だった。治世の七、八十年間は、倭国は乱れて、国々は互いに攻撃し合い年を経た。
そこで、協同して一人の女子を王とした。
|
名曰卑彌呼事鬼道能惑衆 年巳長大無夫婿有男弟佐治國 |
名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている。
壮年だが夫を持たず、男弟が補佐して政治をおこなっている。
|
自爲王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞 |
王となってからは、姿を見た者は少ない。
侍女千人を侍らせている。
ただ一人の男子だけが飲食を給仕し、指示をうけるために出入りをしている。
宮室と楼観や城柵を厳しく設け、常に兵器を持った人々が守衛している。
|
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里 |
女王国の東、海を渡って千余里のところに、また国がある。みな倭種である。
また、その南に、人の身長が三、四尺という侏儒国がある。女王から四千余里離れている。
|
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參 問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里 |
またその東南に裸国、黒歯国があり、船で一年かかって至ることができる。
倭の地を訪問すると、離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる。
|
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都 |
景初二年(238)六月、倭の女王は大夫難升米らを帯方郡に遣わし、天子に拝謁し朝献したいと求めた。郡太守の劉夏は役人を派遣し、魏の都に送らせた。
|
其年十二月詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王卑彌呼 |
その年の十二月の詔書が倭の女王に報せるところによれば以下のようである。
親魏倭王卑弥呼に制詔する。
|
帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到 |
帯方郡太守劉夏が使者をつかわして、汝の大夫難外米と次使都市牛利を送り、汝の献上した男の奴隷四人、女の奴隷六人と班布二匹二丈を持って到着した。
|
汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授 |
汝の国は、はるか遠くにあるのに、使者を遣わし貢献してきたのは、汝の忠孝である。
私は汝を大変慈しみ、いま汝を親魏倭王とし金印と紫綬を装封して帯方郡太守に託し授ける。
|
汝其綏撫種人勉爲孝順 汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞 今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還 |
汝は倭人を綏撫し、我に孝順をつくせ。
汝の使者難升米、年利は遠路を苦労してやって来た。
いま難升米を率書中郎将、年利を率善校尉とし、銀印青綬を与え、彼らに会って、ねぎらって送りかえす。
|
今以絳地交龍錦五匹〔臣松之以爲地應爲?漢文帝著皀 衣謂之弋?是也此字不體非魏朝之失則傳寫者誤也〕絳地{糸芻}粟ケイ 十張茜絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢 |
今、赤地交龍錦五匹、絳地{糸芻}粟ケイ 十張、茜絳五十匹、紺青五十匹を与え、汝が献上した贈物に答える。
|
直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤 皆裝封付難升米牛利 |
また特に汝には紺地句文錦三匹、細班華ケイ五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を与える。
すべて装封して難升米と年利に託した。
|
還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也 |
彼らが帰国したら、記録して受け取り、すべてを汝の国の人々に示し、魏の国が汝を愛することを知らせよ。
故に鄭重によい品物を与える。
|
正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦ケイ刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩 |
正始元年(240)、太守弓遵は建中校尉梯儁らに、詔書・印綬をもたせて倭国に送った。
使節は倭国に至り、倭王に謁して斉王の詔書、黄金、絹類、刀、鏡、采物を与えた。
倭王は使者に上表文を託して詔と恩恵に答謝した。
|
其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人上獻生口倭錦絳青{糸兼}緜衣帛布丹木付短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬 |
その四年(243)、倭王は再び太夫伊声書・掖邪狗ら八人の使節を送り、生口、倭錦、紺青の綴、綿衣、帛布、丹、木附、短弓矢を献上した。
掖邪狗らはみな率善中郎将の位と印綬を与えられた。
|
其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授 其八年太守王?到官 |
その六年、王は詔して、倭の難升米に黄幢を帯方郡に託して授けた。
その八年、帯方郡の太守王?が任官した。
|
倭女王卑彌呼與狗邪國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之 |
倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼と不和であり、倭の載斯烏越らを帯方郡に送って、狗奴国と攻撃しあっている様子を報告し、郡太守は塞曹掾史張政等を遣わし、詔書と黄幢を難升米に授け、激文をもって卑弥呼に告諭した。
|
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人 |
卑弥呼が死んだ時、倭人は直径百余歩の塚を盛大に作った。
奴稗百余人が殉葬された。
|
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定 |
あらためて、男王を立てたが、国中が服さず、お互いに殺し合った。
この時千余人が殺された。
再び卑弥呼の宗女の壱与という十三歳を立てて王とし、国中はやっと治まった。
|
政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 |
張政らは激文を発し、壱与に告諭した。
壱与は、倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を派遣し、張政等が帰国するのを送らせた。
|
因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹 |
この折掖邪狗らは洛陽に行き、男女の奴隷三十人を献上し、白球を五千孔、青く大きいまがたま二枚、異文雜錦二十匹を献上した。
|
参考資料 |
|
 |
「ファンタジ-米子・山陰の古代史」は、よなごキッズ.COMの姉妹サイトです |
 |
|