古事記の概要 | ||||
古事記の成立 | ||||
編年 712年 日本最古の歴史書 編者 太安万侶(おおのやすまろ)、稗田阿禮(ひえだのあれ) 構成 上・中・下の全3巻に分かれる。 上つ巻(序・神話) 中つ巻(初代から十五代天皇まで) 下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで) 過程 元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦する所を筆録し、『古事記』を編んだとされている。 |
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序文 | ||||
序第1段---稽古照今(古を稽へて、今に照らす) ここでは天地開闢からはじまる『古事記』の内容の要点を挙げ、さらにそれぞれの御代の事跡は異なるがほぼ政治に誤りはなかった、と述べている。 序第2段---古事記撰録の発端 天武天皇の事跡を述べた後、天武天皇が稗田阿禮に勅語して『帝記』・『旧辞』を暗誦させたが、時世の移り変わりにより文章に残せなかった経緯を記している。 序第3段---古事記の成立 元明天皇の世となって安万侶に詔が下り、稗田阿禮の暗誦を撰録した経緯を述べ、最後に内容の区分について記している。 経緯では、言葉を文字に置き換えるのに非常に苦労した旨が具体的に記されている。 |
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1:上巻(かみつまき) | ||||
天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が語られ、天孫が降臨し山幸彦までの神代の話を記す。 |
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2:中巻(なかつまき) | ||||
初代神武天皇から15代応神天皇までを記す。 神武東征、ヤマトタケルや神功皇后の話 |
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3:下巻(しもつまき) | ||||
仁賢天皇から推古天皇までは欠史十代ともいわれ、欠史八代と同じく系譜などの記述にとどまり具体的な著述が少ない。 |
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古事記の編者について | ||||
太 安万侶 | ||||
出自 父=多品治(おおのほむじ)という説がある。 多品治は壬申の乱で大海人皇子の側で戦う。 多氏(おおし) 日本最古の皇別氏族とされている。 太、大、意富、飯富、於保とも記され、九州と畿内に系譜を伝える。 生涯(生年不詳 - 723年) 704年 従五位下に叙せられる。 711年 正五位上に叙せられる。 同年、元明天皇に稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられる。 712年 正月、天皇に『古事記』として献上する。 715年 従四位下に叙せられる。 716年 氏長(うじのかみ、氏上)となる。子孫とされる多人長によれば、『日本書紀』の編纂にも加わったという。 723年 民部卿・従四位下で死去 補足:皇別(こうべつ)もしくは王孫(おうそん) 王家や帝家、とりわけ日本の皇室の一門の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族を指す言葉。 皇室同様男子血統でつながらなければならない。 皇別とは815年に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』が、皇別(天皇・皇子の子孫)・神別(天津神・国津神の子孫)・諸蕃(朝鮮半島・中国大陸その他から渡来した人々の子孫)の3種に氏族を分類していることにちなむ用語である。 江戸時代以降は王孫という呼び名も用いられた。 |
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稗田阿禮 | ||||
出自 古事記の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えていたとあるが、古事記の編纂者の一人という以外にはほとんど何もわかっていない。 そのとき28歳であったとされている。 出自に関する諸説 ①柳田国男説 稗田氏はアメノウズメを始祖とする猿女君(さるめのきみ)と同族である。 猿女君は巫女や女孺(にょうじゅ。下級女官)として朝廷に仕える一族である。 従って、阿禮は女性であるという説。 ②梅原猛説 古事記の大胆で無遠慮な書き方や年齢などから推定して、実は藤原不比等であるという説。 ③その他の説 1)山上億良説 |
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古事記偽書説 | ||||
偽書とする説 | ||||
古事記偽書説について 賀茂真淵(宣長宛書翰)や沼田順義・中沢見明・筏勲・松本雅明・大和岩雄・大島隼人らは、『古事記』の成立が公の史書に記されていないことなどの疑問点を提示し、平安時代に多氏の一族が作った等の偽書説を唱えている。 偽書説には大体二通りあり、序文のみが偽書であるとする説と、本文も偽書であるとする説に分かれる。 ちなみに偽書説を採る場合、その製作者として有力視されているのは多人長である。 人長の『弘仁私記』(813年(弘仁4年))では、上代特殊仮名遣が完璧に再現されている。 序文偽書説の根拠 『古事記』の序文(上表文)において『古事記』の成立事情が語られているが、それを証する外部の有力な証拠がない。これをもって序文の正当性に疑義を指摘し、偽書の可能性を指摘している。 以下に根拠の諸説を記す。 ①阿礼に関する記事が『古事記』序文以外にはない。彼ほどの人物の記録が他に全くないのは不自然である。 ②序文は謙辞のはずなのに、『古事記』序文は、阿礼の記憶力の良さと、安万侶が 「文字化」に苦心したことを宣伝し過ぎている点が不自然である。 ③天皇が舎人ごときに直接命令したとある序文は、不自然である。 ④本文とは異質の駢儷体の序文は、後人てないと作れない。 ⑤序文は上表文になっているが、安万侶の署名に「官」を記さない不備がある。 しかも、上表文と序文が混同されるようになるのは平安時代になってからである。 本文偽書説の根拠 『古事記』の神話には『日本書紀』より新しい神話の内容を含んでいる。 そのため、より時代の下る平安時代初期ころの創作、あるいは岡田英弘のように伊勢国の国学者本居宣長によって改作されたものであるとする。 補足:多人長(おおのひとなが、生没年不詳) 奈良時代末期から平安時代初期にかけての官人。姓は朝臣。 808年、正六位上から従五位下に叙される。 812年、『日本書紀』の講書が行われ、参議紀広浜・陰陽頭阿部真勝ら十数名が参加したが、このとき散位従五位下の多人長が中心となって行われた。『弘仁私記』の作者。 |
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偽書ではないとする説 | ||||
偽書ではないする根拠 ①上代特殊仮名遣より 上代特殊仮名遣のなかでも、『万葉集』・『日本書紀』の中ではすでに消失している2種類の「モ」の表記上の区別が、『古事記』には残存しているからである。 これは偽書説を否定する重要な論拠といえる。 ②万葉集に古事記引用の一文がある 君が行日(ゆきけ)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ ここに山多豆(たづ)といふは、これ今の造木(みやつこぎ)といふ者なり。 上の一首の歌は、古事記と類聚歌林(るいじゅうかりん)と、説く所同じからず。 歌の主もまた異なり。 因(よ)りて日本紀(日本書紀)を檢(けみ、しらべる)するに曰(いわ)く、・・・ 類聚歌林は山上憶良(やまのうえのくら)が編著した歌集だが、現在に伝わっていないので内容がわからない。 類聚は、いまでいう辞典のようなもので、万葉集の編纂のための資料としてつくられた。 古事記と類聚歌林のいっていることが食い違っているので、日本書紀を調べてみました、という内容である。 古事記は日本書紀とおなじように扱われていることを示している。 |
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古事記の研究 | ||||
古事記伝(こじきでん、ふることふみのつたえ) | ||||
古事記伝とは 本居宣長による『古事記』全編にわたる全44巻の註釈書である。『記伝』と略される。 1764年の起稿から1798年の脱稿まで、完成には約35年もの歳月が費やされた。 版本としての刊行は1790年)から宣長没後の1822年にかけてである。 本居宣長(1730年 - 1801年) 江戸時代日本の国学者・文献学者・医師 当時、既に解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、『古事記伝』を著した。 紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。 国学への影響 宣長以後は『古事記』に対する評価が一変し、それまでは正史である『日本書紀』と比して冷遇されていたのが、神典として祭り上げられるようになった。 宣長は、『古事記』の註釈にあたって、本文に記述された伝承はすべて真実にあったことと信じ、「やまとごころ」を重視して儒教的な「からごころ」を退けるという態度を貫いた。 |
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古事記の内容 | ||||
詳細は 古事記-B 「古事記内容について」 へ |
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参考資料 | ||||
「歴史読本 完全検証 古事記 日本書紀」(新人物往来社 1999) 「古事記偽書説は成り立たないか」(大和書房 1988 大和岩雄著) 「口語訳古事記」(文藝春秋社 2002 三浦佑之) 「古事記 上・中・下」(講談社学術文庫 1977 次田真幸著) |
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